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水野 寅次郎(みずの とらじろう、1854年9月29日(嘉永7年8月8日)〔『日本人名大辞典』1820頁。〕 - 1909年(明治42年)6月23日〔『東京朝日新聞』1909年7月10日朝刊、1面「死亡広告」。〕)は、明治期の政治家、新聞編集者、内務官僚。官選奈良県知事。 ==経歴== 土佐国で土佐藩士・水野幾七の二男として生まれる。立志社に加わり自由民権運動に参加。1877年、西南戦争において西郷軍に加わろうとして逮捕された〔。1880年10月、立志社を離脱して同志と「共行社」を起こし民権運動から離れた〔『明治密偵史』78頁。〕。同年10月、内務省御用掛となり〔「高知県士族水野寅次郎御用掛準奏任ノ件」〕、さらに和歌山県少書記官を務めた〔『新編日本の歴代知事』713頁。〕。 1882年に退官し、同年、東洋新報社長に就任。福地源一郎、丸山作楽と立憲帝政党を結成したが翌年に解散した。1886年、警視庁三等警視に任官。以後、小石川警察署長、内閣書記官を歴任。1896年12月、奈良県知事に就任。郡制の実施、県立八木測候所の設立、生駒郡農事試験場の設置などを推進〔。1899年2月21日、知事を非職となる〔『官報』第4690号、明治32年2月22日。〕。その後退官し帰郷〔。 1905年、日露戦争の終結について非講和論を唱えた〔。1909年6月、病のため故郷で死去した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「水野寅次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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