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水野 忠守(みずの ただもり、大永5年(1525年) - 慶長5年3月28日(1600年5月10日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め忠義、通称は清六郎で、また織部を称した。水野忠政のまたは四男〔新訂「寛政重修諸家譜」6巻70項〕。兄弟には信元、忠重、於大の方らがいる。 == 経歴 == 水野氏はもともと尾張国知多郡緒川城〔小河城または小川城とも言う。本稿では緒川で統一する〕や刈谷城を含む知多郡北部および三河国西部の碧海郡を広く支配する国人領主であった。当時、尾張・三河の国境付近は織田氏と今川氏が鎬を削っており、その中で父の忠政は今川方についていたが、兄の信元が跡を継いだ後、織田方となった。また、信元が家督を相続した時には緒川城主となっている。以後、兄と行動をともにしたと考えられるが、天正3年12月(1576年1月)に信元が謀叛の嫌疑によって織田信長に殺害された後、天正8年(1580年)に、末弟の忠重が再び刈谷を与えられるまでの動向は不明である。 天正8年に忠重が旧領に復した際に忠守は緒川城主となった。しかしその後、諸事情〔により緒川城を退去したとされ、その時期や理由は不明。なお、忠重は信長の死後、織田信雄や豊臣秀吉に仕えたが、忠守がこれに従ったかは不明である。 忠守は嫡男忠元の所領であった相模国沼目郷(伊勢原市)に隠居し、慶長5年(1600年)に76歳で死去した。墓所は愛知県東浦町の乾坤院。法名は照光院殿月叟芳心居士。嫡男の忠元は幼少から徳川秀忠に仕え、下総山川藩主となり、その子孫は三河岡崎藩、肥前唐津藩、出羽山形藩となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「水野忠守」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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