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水野 忠邦(みずの ただくに)は、江戸時代後期の大名・老中。肥前唐津藩主、のち遠州浜松藩主。 == 生涯 == === 出生・唐津・浜松藩主時代 === 寛政6年(1794年)6月23日、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。長兄の芳丸が早世したため、文化2年(1805年)に唐津藩の世子となり、2年後の同4年(1807年)に第11代将軍・徳川家斉と世子・家慶に御目見する。そして従五位下・式部少輔に叙位・任官した。 文化9年(1812年)に父・忠光が隠居したため、家督を相続する。 忠邦は幕閣として昇進する事を強く望み、多額の費用を使っての猟官運動(俗にいう賄賂)の結果、文化13年(1816年)に奏者番となる。忠邦は奏者番以上の昇格を望んだが、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから昇格に障害が生じると知るや、家臣の諫言を押し切って翌文化14年(1817年)9月、実封25万3,000石の唐津から実封15万3,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。この国替顛末の時、水野家家老・二本松義廉が忠邦に諌死をして果てている。また唐津藩から一部天領に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作のための賄賂として使われたのではないかという疑念と、天領の年貢の取立てが厳しかったことから、後年まで恨まれている。 この国替えにより忠邦の名は幕閣に広く知れ渡り、これにより同年に寺社奉行兼任となる。幕府の重臣となった事で、むしろ他者から猟官運動の資金(賄賂)を受け取る立場となり、家臣たちの不満もある程度和らげる事ができた。 その後、将軍・家斉のもとで頭角を現し、文政8年(1825年)に大坂城代となり、従四位下に昇位する。文政9年(1826年)に京都所司代となって侍従・越前守に昇叙し、11年に西の丸老中となって将軍世子・徳川家慶の補佐役を務めた。 天保5年(1834年)に水野忠成が病没したため、代わって本丸老中に任ぜられ、同8年(1837年)に勝手御用掛を兼ねて、同10年(1839年)に老中首座となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「水野忠邦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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