翻訳と辞書
Words near each other
・ 永井杏
・ 永井杏樹
・ 永井村
・ 永井村 (山梨県)
・ 永井村 (岩手県)
・ 永井松三
・ 永井柳太郎
・ 永井正
・ 永井正夫
・ 永井正浩
永井武雄
・ 永井氏
・ 永井泰宇
・ 永井洋
・ 永井洋一
・ 永井洋二郎
・ 永井流奈
・ 永井流養蚕術
・ 永井浩
・ 永井浩 (内務官僚)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

永井武雄 : ミニ英和和英辞書
永井武雄[ながい たけお]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [い]
 【名詞】 1. well 
: [おす]
 【名詞】 1. male (animal) 

永井武雄 : ウィキペディア日本語版
永井武雄[ながい たけお]

永井 武雄(ながい たけお、1904年 - 1938年4月19日)は、日本野球選手監督兵庫県出身。
== 来歴・人物 ==
神戸市立第一神港商業学校(現・神戸市立神港高等学校)から慶應義塾大学に進み、大学時代は投手兼三番打者として活躍した。1925年の早慶戦復活第一戦で四番右翼手、第二戦は三番投手として出場している。1926年早大二回戦で完封勝利をあげて、慶大にとって早慶戦復活以来となる初勝利をあげた。
慶大卒業後はキリンビールに勤務しながら、全大阪や東京倶楽部でプレー。都市対抗野球大会には、合計8回出場(全大阪(1927年),東京倶楽部(1929~35年))し、全大阪所属時代の1927年には初戦から決勝まで登板し、準優勝に貢献。東京倶楽部所属時代の1931年には優勝投手になっている。同年には、全日本軍に選出し、日米野球にも登板した。東京倶楽部所属時代のチームメイトに横沢三郎宮武三郎らがいる。
1936年大東京軍 結成に当たって監督に就任。しかし、4月5日大東京軍にとって球団結成4試合目に当たる東京ガス(ノンプロ)との練習試合に7-15で大敗(8回まで7-6とリードしていたが、9回に伴吉夫遊撃手が6失策〔プロ野球公式記録では、1試合で個人が記録した失策が6個(木塚忠助〈南海),1イニングの最多失策が4個(本堂保次大阪〉)なので、非常に多い。ちなみに両者とも9月29日西宮球場で記録している。木塚が太陽戦、本堂が阪急戦で、変則ダブルヘッダーだった。〕,漆原進左翼手が2失策と乱れ一挙に9点取られて逆転負けした)し、激怒した球団代表の鈴木龍二によって監督を解任された。後任の監督には伊藤勝三が就いた。
1938年応召され、4月19日中国北部郭里集〔〕(台児荘の戦いがあった)にて戦死。数え35歳没。慶應義塾大学野球部OB最初の戦死者でもあった。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。
後年、鈴木龍二は永井の戦死を知り、「オープン戦で負けたからと言ってその場でクビにしてしまったのは、若気の至りとはいえ、実に無茶なことをしたものだと思う。」と後悔したという〔出典:鈴木龍二著 「鈴木龍二回顧録」(1980年)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「永井武雄」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.