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永倉 新八(ながくら しんぱち、天保10年4月11日(1839年5月23日) - 大正4年(1915年)1月5日)は、幕末の武士(松前藩士、新選組隊士)。旧姓は長倉、諱は載之(のりゆき)。幼名は栄吉、栄治。 松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番隊組長及び撃剣師範を務めた。明治期に杉村義衛と改名し、樺戸集治監の撃剣師範を務めた。 == 来歴 == 松前藩江戸定府取次役(150石)・長倉勘次の次男として、同藩上屋敷(江戸下谷三味線堀、現・東京都台東区小島2丁目)にて生まれる。弘化3年(1846年)、岡田利章(3代目岡田十松)の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。4年目に師が亡くなり、以後、岡田助右衛門に教わり15歳で切紙。安政3年(1856年)、18歳で本目録。元服して新八と称する。同年、剣術好きが昂じて〔『剣の達人111人データファイル』(新人物往来社)〕脱藩し、永倉姓を称して江戸本所亀沢町の百合元昇三の道場で剣を学ぶ。その後、市川宇八郎(芳賀宜道)と剣術修行の旅に出る。江戸に戻ると、伊庭秀業の門人・坪内主馬に見込まれて師範代を務め、その後、近藤勇の道場・天然理心流「試衛館」の食客となる。 近藤らと共に浪士組に参加。新選組結成後は、二番組組長や撃剣師範を務めるなど中枢を成した。元治元年(1864年)の池田屋事件では、近藤や沖田総司らと共に池田屋に突入。沖田が病に倒れ、藤堂平助が負傷して離脱、永倉も左手親指に深い傷を負った中、防具がボロボロになり刀が折れるまで戦った。事件後、新選組の勇名は天下に轟いた。その後、近藤に我儘な振る舞いが目立つようになると、これを遺憾とした永倉や斎藤一、原田左之助、島田魁、尾関政一郎、葛山武八郎は、脱退覚悟で近藤の非行五ヶ条を会津藩主・松平容保へ訴え出る等、近藤勇・土方歳三との路線対立を見せる。後、幕府から見廻組格70俵3人扶持(京都見廻組隊士と同格の地位)に取り立てられた。油小路事件では、原田らと共に御陵衛士を暗殺。 慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、決死隊を募って刀一つで突撃する豪胆さを見せた。江戸に退却後、新選組改め甲陽鎮撫隊として新政府軍と甲州勝沼にて戦うが敗れ、江戸へ戻った後は近藤らと袂を分かつ。その後、靖兵隊(靖共隊)を結成し、北関東にて抗戦するが、米沢藩滞留中に会津藩の降伏を知って江戸へ帰還し、その後、松前藩士(150石)として帰参が認められる。明治4年(1871年)、家老・下国東七郎のとりなしで藩医・杉村介庵(松柏)の娘・きねと結婚して婿養子として松前に渡る。 明治6年1873年、家督を相続して杉村治備(後に義衛)と改名する。その後は北海道小樽へ移る。警察官僚・月形潔の招きで、明治15年(1882年)から4年間、樺戸集治監(刑務所)の剣術師範を務め、看守に剣術を指導する〔建物は現在、月形樺戸博物館となっている。〕。退職後は東京牛込にて剣術道場を開く。明治32年(1899年)、妻と子供が小樽市内で薬局を開いていたため、再度小樽へ転居。明治38年(1905年)から小樽市緑1丁目(旧小樽少年科学館付近)に転居。明治42年(1909年)7月、小樽市花園町に住む。東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)の剣道部を指導する。 大正4年(1915年)1月5日、虫歯を原因とする骨膜炎、敗血症を発症し、小樽にて死去。享年77。分骨され、墓は東京都北区滝野川の寿徳寺境外墓地。字は蜂須賀正昭侯。 == 著述 == 明治時代に永倉は『浪士文久報国記事』、『七ケ所手負場所顕ス』を記す。『小樽新聞』記者吉島力の取材にも協力し、『新選組顛末記』を残した。これによって、「新選組は悪の人斬り集団、悪の使者」という従来の固定観念が崩れ、新選組再評価の契機となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永倉新八」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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