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永吉家(ながよし け)は、薩摩国の守護大名、島津氏の分家である。 ==概略== 始祖は島津家久(1547 - 1587)である。永吉島津家の樹立は2代目島津豊久が死後、佐土原が徳川家康に召し上げられて、家臣団が佐土原から追われて永吉を主体に落ち着きいた後である。 初代の島津家久は戦国時代(安土桃山時代)、薩摩島津家15代島津貴久の4男として伊作城(亀丸城)で誕生(兄弟は島津義久、義弘、歳久の末弟である)した。若年のころより祖父島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評価された。 1561年、大隅国の肝付しとの廻阪の合戦で初陣し、以後、「島津兄弟」と言われるように島津家の三州統一並びに九州制覇に向けて奮戦し、島津家が最も華やかであった隆盛期のひとつの時代の基礎を築いた武将である。 当時、串木野城主であったが、島津家の三州統一の神仏の加護を伊勢神宮などの謝すために上洛した。そこで連歌師や明智光秀らとも交流を行い、武将としての素養も磨いた。「家久君上京日記」として残っている。 その後、島津家の先兵として、長崎・島原半島の「沖田畷の戦い」(龍造寺隆信)や大分の「戸継川の戦い」(大友宗麟、並びに四国からの援軍、長宗我部、十河、仙石一族)などで少数勢力の自軍を率いて「釣り野伏せ」戦法などを用い、ことごとく勝利した。その当時は日向の佐土原城主となっていた。その後、豊臣秀吉軍の島津軍征伐によって島津軍は敗退し、佐土原に帰任していたが、その後、急死した。 彼の嫡子である島津豊久(佐土原城主、永吉島津家2代領主)は佐土原城主を継承し、伯父島津義弘について朝鮮への戦いなどで大いに戦ったが。その後、島津義弘を首領とする島津軍は関ヶ原合戦に西軍として参加したが、合戦終了後の鹿児島への帰還において「敵中突破」を敢行して、主君を無事帰還させるために徳川方の家臣団との壮絶な戦いを「捨てがまり戦法」などの玉砕戦法を駆使して豊久以下の多くの兵士はその場で死亡した。 よって島津義弘は無事帰還することに成功し、後に17代当主となれたである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永吉家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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