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永富 映次郎(ながとみ えいじろう、1903年11月6日 - 1981年10月17日)は、日本の映画監督、脚本家、編集技師、文筆家である〔キネマ旬報社, p.285.〕〔朝日, p.349.〕〔永富, 映次郎, 1903-1981 、国立国会図書館、2013年4月5日閲覧。〕〔''永富映次郎''、''jlogos.com'', エア、2013年4月5日閲覧。〕〔''永富映次郎''、日本映画データベース、2013年4月5日閲覧。〕〔''永富映次郎''、''永富映治郎''、日本映画情報システム、文化庁、2013年4月5日閲覧。〕〔''永富映次郎''、日活データベース、2013年4月5日閲覧。〕〔''永富映次郎''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年4月5日閲覧。〕。本名永富 熊雄(ながとみ くまお)〔。 == 人物・来歴 == 1903年(明治36年)11月6日、長崎県長崎市勝山町に生まれる〔〔〔。 1918年(大正7年)3月、長崎市勝山高等小学校(現在の長崎市立勝山小学校)を卒業する〔。地元で「長崎映画研究会」を結成し活動を続けいているうちに、牛原虚彦の第五高等学校(現在の熊本大学)時代の同級生の紹介を受けて1925年(大正14年)4月に東京に移り、牛原の個人的な書生になる〔。同年9月、松竹蒲田撮影所に入社、助監督部に所属して牛原専属の助監督となる〔。1926年(大正15年)早々、清水宏の原作をもとに執筆した脚本が採用され、清水が監督し、『真紅の熱情』の題で同年3月21日に公開される〔〔〔。師の牛原が1930年(昭和5年)11月15日に公開された『若者よなぜ泣くか』を最後に同社を退社、アメリカ合衆国に渡ったが、帰国後の1933年(昭和8年)1月、京都の日活太秦撮影所に移籍するに際し、永富も松竹キネマを退社して牛原に同行、日活に移籍する〔。1934年(昭和9年)、日活を退社し、トーキー専門の新しい映画会社であるゼーオー・スタヂオ(太秦発声映画)に移籍する〔。同年10月、監督に昇進して『俺は水兵』を監督、同作は翌1935年(昭和10年)1月10日に公開された〔〔〔。 1937年(昭和12年)7月、東京に戻り、大都映画に入社、ふたたびサイレント映画に携わることになる〔。4作を監督して、同年中に朝日映画製作に移籍し、ドキュメンタリー映画に転向する〔〔〔。1940年(昭和15年)3月1日に結婚、その後、1男1女をもうけた〔。1941年(昭和16年)、最初の単著『新篇映画用語辞林』を上梓している〔〔新篇映画用語辞林 、国立国会図書館、2013年4月5日閲覧。〕。1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終結後、同社解散とともにフリーランスの映画監督、脚本家となる〔。還暦を迎える1963年(昭和38年)に映画界から引退した〔〔〔。 文筆家としては、1972年(昭和47年)、駆逐艦「雪風」に取材した『駆逐艦雪風 誇り高き不沈艦の生涯』(出版共同社)、1976年(昭和51年)には、『肉弾』を書いた桜井忠温に取材した『「肉弾」将軍 桜井忠温』(青葉図書)、1977年(昭和52年)2月には、「日本二十六聖人」に取材した『鮮血の十字架 日本二十六聖人殉教記』(中央出版社)をそれぞれ上梓している〔〔。 東京では東京都北区王子に居を構えた〔。1981年(昭和56年)10月17日、急性肺炎のため北区王子の北病院(現在の生協北診療所、現在東十条)で死去した〔〔〔。満77歳没〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永富映次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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