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永射 保(ながい たもつ、1953年10月3日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 指宿商では1971年、夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、定岡智秋のいた鹿児島実に敗退。この予選の2回戦では鹿屋工を相手にノーヒットノーランを記録している。 同年のドラフト3位で広島東洋カープに入団。外木場義郎のボールを見てレベルの高さを痛感、1973年5月には初先発の機会も与えられたが、広島では1勝も挙げられなかった。 その当時安田猛が遅いボールで王貞治をキリキリ舞いさせるのを見て遅いボールで生きて行こうと決意する。2年目のオフ、別当薫監督と長谷川良平コーチと相談し腕を下げたのが変則フォームの始まりだったという〔ベースボールマガジン9月号 2007年No.4 p48~p51〕。 1974年に乗替寿好との交換トレードで太平洋クラブライオンズに移籍。中継ぎとして起用されたが結果を出せず苦しむ。山田久志のフォームを研究、踏み込む足をインステップにして、ワンテンポタイミングを遅らせるフォーム改造に4年を掛けて成功〔ベースボールマガジン9月号 2007年No.4 p48~p51〕。1976年から一軍に定着し、翌年には先発の一角として9勝をあげる。その後は貴重な左のリリーフ投手として起用され、ローテーションの谷間では先発もこなす。 「左のサイドハンド(アンダースローと書かれることもある)」という流麗かつ特異な投げ方から、左殺しとして活躍。広岡達朗監督時代は左のワンポイントエースとして、1982年、1983年、1985年と3度のリーグ優勝に貢献。1983年の巨人との日本シリーズでは5試合に登板、第6戦ではワンポイントリリーフながら勝利投手となり日本一に貢献。1985年の阪神との日本シリーズでも1勝を挙げた。 1987年に広瀬新太郎との交換トレードで片平晋作と共に横浜大洋ホエールズに移籍、1989年に福岡ダイエーホークスに移籍し、1990年に現役引退。19年間の現役生活にピリオドを打った。歴代3位となる566試合のリリーフ登板を記録、年間リーグ最多登板試合を4回記録している。西武時代は特に、ピンチで相手主軸を一人抑えて流れを引き戻すことも多く、「史上最強のワンポイント」との呼び声もある。 現在は、福岡県小郡市の西鉄小郡駅前でスナック「サウスポー」を営む一方、プロ野球マスターズリーグにも福岡ドンタクズの選手として参加している。また、リトルリーグ「小郡リトルシニア」の監督を務めたり、筑後・佐賀を放送エリアとするドリームスFMで「スクランブル交差点」という番組を持つ。さらに、佐賀県の運送会社「株式会社大運」の顧問でもあり、地元筑後を中心に幅広く活動している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永射保」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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