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永山 盛輝(ながやま もりてる、1826年9月16日(文政9年8月15日) - 1902年(明治35年)1月18日〔『平成新修旧華族家系大成』下巻、257-258頁。〕〔『明治維新人名辞典』719頁では「1月17日」没。〕)は、幕末の薩摩藩士、明治期の官僚・政治家。新潟県令、元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候、男爵。通称・清右衛門、左内、正蔵〔『明治維新人名辞典』719頁。〕。 ==経歴== 薩摩藩士・永山盛広の息子として生まれる〔。勘定奉行、江戸留守居役を務め藩政改革に尽力した〔『新編日本の歴代知事』399頁。〕。戊辰戦争では東征軍の薩摩藩兵監軍として従軍し各地に転戦した〔。 明治2年2月28日(1869年4月9日)会計官御東幸中用度司判事に就任。その後、大蔵省用度権大佑、民部省監督権大佑を歴任。明治3年6月23日(1870年7月21日)伊那県出仕に転じ、租税大佑と同県少参事心得を兼任。同県少参事、同大参事を歴任。明治4年11月20日(1871年12月31日)伊那県が廃止となり新たに設けられた筑摩県参事に就任し、1873年3月、同権令に昇進〔「職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書 永山盛輝」〕。筑摩県では教育の普及に尽力し、県内を巡回し学制前に郷学校百数十校を設置した〔『朝日日本歴史人物事典』1227頁。〕。1875年10月、新潟県令に転任。戊辰戦争からの復興のため士族女子の救済施設「女紅場」の設置や、小学校の就学率の向上に尽力〔。 1885年4月18日、元老院議官に就任。1890年10月20日、元老院が廃止され非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられ〔、1891年4月21日、非職元元老院議官を依願免本官となる〔『官報』第2340号、明治24年4月22日。〕。同年4月15日、貴族院勅選議員に任じられ〔『官報』第2335号、明治24年4月16日。〕、死去するまで在任した〔『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』148頁。〕。1900年5月9日、勲功により男爵を叙爵〔『明治過去帳』新訂初版、644頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永山盛輝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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