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永沢 富士雄(ながさわ ふじお、1904年9月13日 - 1985年3月19日)は、北海道函館市出身のプロ野球選手(内野手)。読売ジャイアンツ(旧・東京巨人軍)の初代4番打者として知られる。 == 来歴・人物 == 函館商業学校を卒業後、1925年に函館太洋倶楽部(函館オーシャン倶楽部)に入団。当初は外野手であったが、選手兼任監督の久慈次郎の指導により後に一塁手に転向した。1934年にベーブ・ルースが来日した際の日米野球で日本代表に選ばれ、久慈の推薦によりこの時の日本代表を母体として結成された大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍・読売ジャイアンツ)に入団し、アメリカ遠征にも参加した。背番号は4。 巨人軍初の公式戦となった1936年7月1日の対名古屋軍戦(戸塚球場)では4番・一塁手で先発出場した。先発4番はこの1試合のみであったが、このことから永沢は巨人の初代4番打者として名を残すことになった。荒削りながらも長打力を備えた打撃と堅実な一塁守備で巨人草創期の主力選手として活躍した。 1938年8月の函館遠征で古巣の函館太洋倶楽部と対戦した際に足を捻挫してからは川上哲治が一塁に定着したため、主に川上が投手として出場する際の一塁手や終盤の守備固めで起用されるようになった。 1943年限りで現役引退。引退後は函館新聞社の記者を務めるかたわら、函館太洋の監督を務めるなど後進の指導にもあたった。1985年3月19日に80歳で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永沢富士雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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