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永田町(ながたちょう)は、東京都千代田区の町名。永田町一丁目と永田町二丁目がある。 隣接する霞が関とともに日本の国家中枢機能が集中する。特に国会議事堂を中心に総理大臣官邸(首相官邸)、衆議院議長公邸・参議院議長公邸、諸政党の本部などが立地し、日本における国会や議会の場の代名詞でもある。 == 沿革 == 地名は、江戸時代初期に永田姓の屋敷が並んでいたので一帯が「永田馬場」と呼ばれたことに由来する。 江戸城に近いことからさらに大名屋敷が建ち並ぶようになり、江戸末期に暗殺された井伊直弼をはじめとする多くの大名屋敷があった。2003年(平成15年)の旧首相官邸改築工事の際には村上藩内藤家の屋敷跡が発見されている。 1872年(明治5年)以降、現在の憲政記念館から日本水準原点付近に陸軍省、参謀本部、教育総監部、陸軍航空総監部など陸軍中枢が順次置かれるようになった。1941年(昭和16年)12月以降、これらが市ヶ谷台に移転するまでは、「三宅坂」あるいは「永田町」といえば主に参謀本部を指す言葉でもあった。1888年(明治21年)には東京女学館が、翌1889年(明治22年)、女子学習院(当時の華族女学校)が現在の衆・参両議長公邸の地にそれぞれ開校移転し、後に共学の女子学習院幼稚園(当時の華族女学校幼稚園)も置かれた。1908年(明治41年)には永田町小学校(当時の永田町尋常小学校)が開校した。 1923年(大正12年)の関東大震災を機に、現在の霞ヶ関地区の区画再編が行われ、北大路魯山人が星岡茶寮を借り受け「美食倶楽部」の拠点とし、また、都立日比谷高校(当時の府立一中)がこの地の「たばこ王」村井吉兵衛の邸宅跡に移転してくる。 1936年(昭和11年)に国会議事堂が完成すると、一挙に政治中枢が集中し、「永田町」は「政界」の代名詞になっていった。また、同年に発生した二・二六事件では、永田町・霞が関・山王下(日枝神社~赤坂周辺)周辺一帯を「反乱軍」が占拠した。 1964年(昭和39年)、東京オリンピックに向けての道路(国会通り)拡幅前は国会議事堂横に民家が数軒存在した。1967年(昭和42年)4月1日に住居表示を実施した〔1967年(昭和42年)4月11日自治省告示第81号「住居表示が実施された件」〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永田町」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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