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永田 鉄山(ながた てつざん、1884年(明治17年)1月14日 - 1935年(昭和10年)8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍中央幼年学校を2位、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校も2位で卒業、参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任する。軍務官僚として常に本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」〔志道保亮『鉄山永田中将』(川流堂小林又七本店)昭和13年〕と評される秀才だったが、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に殺害される。死亡時は、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将。陸軍三羽烏の一人。 == 略歴・人物 == 長野県諏訪郡上諏訪町本町(現・諏訪市)出身。郡立高島病院長・永田志解理の四男として生まれる。永田家は代々高島藩の藩医を務めてきた由緒ある家柄で、鉄山は裕福な家庭で育った。 1890年(明治23年)高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現・諏訪市立高島小学校)入学。1895年(明治28年)8月26日 父・志解理永眠。(享年61歳) 同年10月、東京市牛込区愛日尋常高等小学校に転校。1898年(明治31年)9月に東京陸軍地方幼年学校に入校する。なお、高島尋常小学校・諏訪高等小学校では「お天気博士」の愛称で知られる中央気象台長の藤原咲平と同級であり、同じく諏訪出身で岩波書店の創立者である岩波茂雄らとは生涯にわたって交友があった。 1903年(明治36年)5月に士官候補生となり兵科は歩兵に指定され、歩兵第3連隊付となる。1904年(明治37年)10月24日に陸軍士官学校(16期)を卒業し、陸軍歩兵少尉に任ぜられる。 1908年(明治41年)に陸軍大学校(23期)入校。1910年(明治43年)11月に陸軍大学校を2位(首席は梅津美治郎)で卒業し、恩賜の軍刀を授与される。他の同期に蓮沼蕃、前田利為、猪狩亮介、入江仁六郎、小川恒三郎、小畑敏四郎。 その後、1920年(大正9年)に駐スイス大使館付駐在武官となる。1921年(大正10年)10月頃、陸士同期である小畑、岡村寧次や一期下の東條英機と共に、ドイツ南部の温泉地バーデン=バーデンにおいて、陸軍の薩長閥除去を目指す等の「バーデン=バーデンの密約」を行なったという。 かねてからの「国家総動員に関する意見」などが認められて1926年(大正15年)に国家総動員機関設置準備委員会幹事となり、内閣の資源局、陸軍省の動員課と統制課の設置に導き、初代動員課長となる。1928年(昭和3年)には動員課長を辞任し、後任は東条英機となった。麻布の歩兵第3連隊長を務めた後、1930年(昭和5年)に南次郎陸軍大臣の下で陸軍省軍事課長となる。1932年(昭和7年)に陸軍少将に昇進。 1933年(昭和8年)6月、陸軍全幕僚会議が開催され、会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対し、「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない。また対ソ準備は戦争はしない建前のもとに兵を訓練しろ」と言った。これに対し荒木貞夫陸軍大臣は「支那を叩くといってもこれは決して武力で片づくものではない。しかも支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁した〔「日本陸軍興亡の二十年」『丸』潮書房昭和31年12月〕。 対支戦争を考えていた永田は、対ソ戦準備論の小畑と激しく対立し、これが皇道派と統制派の争いであった〔。 1934年(昭和9年)に陸軍省軍務局長となった。 同年8月、国府津に池田純久、田中清、その他数名の腹心を集めて会議を開き、永田が従来指導していた経済国策研究会を通じ、昭和神聖会に働きかけ、上奏請願に導き、国家改造に伴って戒厳令を布き、皇族内閣を組織するという計画を練った〔山口富永『二・二六事件の偽史を撃つ』国民新聞社、平成2年〕。 エーリヒ・ルーデンドルフの政治支配と総力戦計画に心酔し、同年10月、陸軍の主張を政治、経済の分野に浸透させ、完全な国防国家の建設を提唱する『国防の本義と其強化の提唱』という陸軍パンフレットを出版した。 「永田の在世中、議会、政党、軍、政府の間で、合法あるいは非合法による近衛擁立運動についての覚書が作成され、軍内の味方はカウンター・クーデターを考えていた。だから右翼は右翼でクーデターを考えてもよい。どっちのクーデターが来ても近衛を押し出そうと、ここまで考えていたということが永田が殺された原因のひとつ」ということを、社会民衆党の亀井貫一郎が語っており〔日本近代史料研究会編『亀井貫一郎氏談話速記録』〕、永田、東条、富永、武藤、下山ら陸大閥(一夕会)の一部が、亀井、麻生らを通じて近衛を担いで革新内閣を実現し、革新官僚と連絡をとって革新政策を実現しようとした。そのために軍内反対派の皇道派を追放し、部内秩序を乱す青年将校を弾圧しようとした〔松沢哲成・鈴木正節『二・二六と青年将校』三一書房、 昭和49年〕。 統制派のカウンター・クーデターは『政治的非常事変勃発ニ処スル対策要綱』という具体案にまでなっていた。 永田らは機密費を使って、真崎甚三郎悪玉説を流布し、岡田啓介総理大臣は真崎を軍から追放することを内閣の最高方針としたという〔。 同年11月に陸軍士官学校事件が起こる。村中孝次大尉、磯部浅一一等主計をはじめ青年将校らは、「これは、我々を陥れる辻政信大尉と片倉衷少佐による陰謀であり、永田が暗躍しており、真崎教育総監の失脚を目論む統制派の陰謀である」と主張した。 青年将校らの政治策動を封じるために、少なくとも真崎大将の教育総監は退いてもらわねばならないという議論が、武藤章中佐や池田純久中佐といった統制派を中心に起こり、「多少の波乱があっても、それを覚悟しても断行せねばなるまい。波乱といっても大したこともあるまい」という結論に達した。そこで永田軍務局長は陸軍大臣林銑十郎大将に真崎大将転補のことを相談すると、林陸軍大臣は真崎大将の転補を断行することを決意した〔池田純久『日本の曲り角』千城出版、昭和43年〕。 1935年(昭和10年)7月15日の異動において真崎教育総監が更迭された事が、あたかも永田の暗躍ないし陰謀によるもので、統帥権の干犯であるかのように皇道派に喧伝され、それを真に受けた歩兵第41連隊付の相沢三郎中佐は、同年7月19日に有末精三中佐の紹介により永田に面会し辞職を迫る。同年8月12日、その相沢に軍務局長室で殺害された(相沢事件)。。 死亡時は陸軍少将であったが、特に陸軍中将に昇進される。没後追贈で正四位勲一等に叙され瑞宝章を授与。墓所は東京都港区青山霊園附属立山墓地。 永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、皇道派の青年将校たちは、後に二・二六事件を起こすに至る。その後、永田が筆頭であった統制派は、東條英機が継承し、石原莞爾らと対決を深め(石原は予備役となり)やがて太平洋戦争(大東亜戦争)に至る。 企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」とも追想していた〔NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」で放送された証言録音より。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永田鉄山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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