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江原 親次(えばら ちかつぐ、生年不詳 - 慶長3年5月17日(1598年))は戦国時代の武将。字は又四郎、兵庫助。別の諱に景親か〔『倭文往来』高山城節。ただし、同書は和泉守(佐次)を兵庫助景親の父とする一方、又四郎(親次)をその弟とするなど混乱が見られる。〕。従四位侍従。 江原佐次(和泉守)の子で、弟に江原親勝、甥に江原親家。宇喜多家臣として一万石を領し、大坂の陣に参加した江原高次との間柄は不明だが、一族と推定される。 美作国久米北条郡倭文(しとり)庄(現在の岡山県津山市)を根拠地とする。宇喜多氏家臣として主に活動し、宇喜多直家の娘婿であったことから、一門衆として浮田姓も名乗った。中山手里村の常山城を居城とし油木北村の高山城、さらには隣接する大庭郡に進出し、篠向城(篠葺城)・大寺畑城などを支配した。 天正6年(1578年)、播磨国上月城の城将・上月景貞に与騎として付けられていたが、城を攻める羽柴秀吉に内応して寝返る。天正8年(1580年)、寺畑城の戦いに参加するも、毛利方の吉川元春に敗戦。本能寺の変後は篠向城を守る。 文禄・慶長の役に従軍したが、病を得て、慶長3年(1598年)5月17日に釜山で死去。弟(親勝か)も共に死去した〔『倭文往来』〕。家臣の地衛門尉がその遺骸を持ち帰って寺に葬り、時の住職・徳蔵坊にその姓を授け寺名を金龍山江原寺と改称して、以来その菩提所となっている。 ==出典・脚注== 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「江原親次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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