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江夷(こう い、384年 - 431年)は、東晋から南朝宋にかけての官僚。字は茂遠。本貫は済陽郡考城県。 == 経歴 == 江敳の子として生まれた。南徐州に召されて主簿となったが、就任しなかった。403年(元興2年)、桓玄が帝を称すると、江夷は豫章王文学となった。404年(元興3年)、劉裕が桓玄を討つべく起兵すると、江夷は劉裕に召されて鎮軍行参軍となった。まもなく大司馬琅邪王参軍事となったが、公務の失敗のために免官された。ほどなく再び主簿として召された。桓玄討伐の功績により南郡州陵県五等侯に封じられた。孟昶の下で建威府司馬となり、中書侍郎に任じられた。中軍太尉従事中郎となり、征西大将軍劉道規の下で長史・南郡太守をつとめた。まもなく太尉諮議参軍に転じ、録事を兼ね、長史にうつった。入朝して侍中となり、劉裕の北伐に従軍して、洛陽の園陵に参拝し、潼関まで進軍した。凱旋すると、寧遠将軍・琅邪国内史・徐州大中正を兼ねた。劉裕の命により大司馬府と琅邪国の事務を代行した。 宋国が建てられると、江夷は五兵尚書に任じられた。420年(永初元年)、劉裕が帝位につくと、江夷は度支尚書に転じた。義興郡太守として出向したが、病のために辞職した。まもなく吏部尚書に任じられ、呉郡太守となった。424年(景平2年)、営陽王劉義符が呉県で殺害されると、江夷は哀哭して礼を尽くした。また兄の病のために官を去ったが、丹陽尹として再起した。吏部尚書となり、散騎常侍の位を加えられた。429年(元嘉6年)、尚書右僕射となった。431年(元嘉8年)、湘州刺史に任じられ、散騎常侍の位を加えられた。赴任しないうちに、病のために死去した。享年は48。前将軍の位を追贈された。 子に江湛があった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「江夷」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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