翻訳と辞書
Words near each other
・ 江寧スポーツセンター
・ 江寧体育中心
・ 江寧区
・ 江寧区 (上海市)
・ 江寧区 (曖昧さ回避)
・ 江寧府
・ 江寧条約
・ 江寧県
・ 江寧部隊
・ 江尻
江尻亮
・ 江尻停留場
・ 江尻光一
・ 江尻南美
・ 江尻喜多右衛門
・ 江尻城
・ 江尻宏一郎
・ 江尻宿
・ 江尻慎太郎
・ 江尻憲泰


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

江尻亮 : ミニ英和和英辞書
江尻亮[えじり あきら]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こう, え, ごう]
 【名詞】 1. inlet 2. bay 
: [しり]
 【名詞】 1. buttocks 2. bottom 

江尻亮 : ウィキペディア日本語版
江尻亮[えじり あきら]

江尻 亮(えじり あきら、1943年1月10日 - )は茨城県高萩市〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、89ページ〕出身の元プロ野球選手監督。現役時代は大洋ホエールズ・横浜大洋ホエールズ外野手として活躍した。引退後は大洋でコーチ・監督を務めたほか、千葉ロッテマリーンズの監督も務めた。左投げ左打ち。
== 来歴 ==
実家は旅館を営んでいた。日立一高では3年生の時、エースとして夏の甲子園東関東大会(茨城、千葉両県)の茨城県予選決勝に進出するが、0-1で水戸商に惜敗する。
卒業後は早稲田大学に進学。東京六大学リーグでは1年生から登板機会を得るが結果を残せず、同期のエース・宮本洋二郎の後塵を拝す。一時は外野手に転向するが3年生の時にリリーフとして復活。1964年、4年生時の春季リーグで初勝利。同季は3勝をあげ防御率0.00、代打としても活躍し1960年秋季リーグ以来の優勝に貢献する。同年の全日本大学野球選手権大会では決勝で駒大に敗れ準優勝。その後も好調を維持し、秋季リーグの立大1回戦4回まで、3季にわたり46回2/3連続無失点のリーグ記録を樹立した。リーグ通算23試合登板、7勝6敗、防御率1.97。大学同期には宮本の他、石山建一がいた。
1965年大洋ホエールズ投手として入団。しかし、巨人戦で王貞治に満塁ホームランを打たれるなど結果を残せず、1967年に打者転向。左翼手の定位置を獲得すると、1968年には打率.283で初のベストテンに入る(セ・リーグ9位)。1970年には右翼手にコンバートされ、ベストナインの外野手部門に選出。1973年にも2度目のベストナインに選出されるなど、走攻守に優れた外野手として活躍していたが、1977年の巨人戦で加藤初投手から頭部に死球を受け、36時間にわたり〔近藤唯之 『引退 そのドラマ』 文春文庫、1986年、ISBN 4-10-132204-X、252頁。〕昏睡状態に陥る。これを機に右翼の定位置を高木嘉一に奪われ先発出場が激減、選手生命を大きく縮めた。1979年に引退。
その後は一軍打撃コーチ(1980年 - 1981年)・二軍打撃コーチ(1982年 - 1984年)・二軍監督(1985年 - 1986年)を歴任。二軍監督に就任した1985年には15歳以上も年下の女性と結婚し、話題となる。
1987年からはスカウトに転身し、進藤達哉石井琢朗など他球団がノーマークだった後年の名選手を発掘し、ドラフト外で入団させる。1990年に現場復帰し、ヘッドコーチに就任。1992年のシーズン途中、須藤豊監督の休養により監督代行に就任し、須藤が退団した後正式に監督となった。就任後は先発の柱だった盛田幸妃を中継ぎに転向させ、1990年から抑えに転向していた遠藤一彦を先発に再転向させるなど投手陣を建て直し、野手陣も自身がスカウト時代に獲得した石井・進藤を積極的に起用。最終的には5位に終わるが、優勝したヤクルトに勝ち越すなど健闘し、勝率5割で乗り切る。「翌年も引き続き江尻監督に指揮を」という声もあったものの、辞退して退任した。この年、盛田と佐々木主浩のダブルストッパーが誕生。盛田は中継ぎとしての適性を十二分に発揮し、大車輪の活躍でリリーフながら最優秀防御率を受賞。また、投手から野手に転向した直後で、守備に不安はあるものの強肩・俊足とシュアな打撃が売り物だった石井を三塁手で起用。石井はシーズン後半に清水義之から定位置を奪うなど活躍した。1992年のオフにチームが「横浜ベイスターズ」に改称したため、「横浜大洋ホエールズ」最後の監督となった。後任には早大・大洋の先輩の近藤昭仁が就任し、自身はフロントへ転身。
1995年、早大の先輩である広岡達朗ゼネラルマネージャーの誘いを受け、千葉ロッテマリーンズの二軍ヘッドコーチに就任。シーズン途中、一軍ヘッドコーチへ昇格。1996年からは、ボビー・バレンタイン監督の解任に伴いロッテの監督に就任。就任直後のファン感謝デーで熱狂的なバレンタインファンから「広岡リモコン江尻しね。」という垂れ幕を掲げられるという屈辱を味わった。開幕投手には、伊良部秀輝小宮山悟エリック・ヒルマンではなく園川一美を起用し、対戦相手のダイエー監督である王貞治に「開幕投手には格というものがあるだろう」と発言されたものの勝利。園川に勝利投手はつかなかった。
前年2位のチームは低迷し、江尻自身もシーズン中に体調を崩し途中休養した時期があった。シーズン終了後、成績不振の引責や、自分を招聘した広岡GMの解任もあり、わずか1年で辞任。大洋時代の勝率を大きく下回り、後任には同じく近藤が就任している。その後はロッテの編成部長に就任。2001年退団。後任は広野功。その後はサンディエゴ・パドレスの極東スカウトを経て、現在は横浜スタジアムの室内練習場で開催されている「ジャパンアスレチックアカデミー」のチーフインストラクター。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「江尻亮」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.