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江崎邦助(えざき くにすけ、文久元年(1861年) - 1886年(明治19年)6月23日)は、明治時代の警察官である。 == 人物 == 邦助は、1861年(文久元年)に志摩国答志郡鳥羽村(現・三重県鳥羽市)で江崎又右衛門の子として生まれ、1884年23歳で愛知県警察に就職した。 1886年に妻じうと結婚し、間もなく豊橋警察署田原分署(現田原警察署)勤務を命じられる。 この頃は大阪で伝染病のコレラが発生し、6月には愛知県に広がって、多くの死者を出していた。渥美半島も伝染病の危機がないわけではなかった。 ある時邦助は分署長の命で奥郡を巡察していた折、堀切村(現・愛知県田原市堀切町)でコレラが発生したと言う情報を聞きつけ、すぐ医師を連れて診察しに行った。そして、真性コレラである事が確認され、すぐに消毒をしようとすると、堀切村の村人に激しく拒否された。一時は石を投げる、鎌を向けられるなどもされたが、邦助や医者らは強制や法律に頼らず、三日三晩眠らずに説得を続けた。そしてついに村人の協力を得る事が出来た。消毒は徹底的にし、村人だけでなく、通行人にまで行われた。 邦助はこの事を署に報告するため、急いで堀切村を出発したが、邦助もコレラにかかっていて、若見村(現・愛知県田原市若見町)まで来た時にはもう一歩も歩けなくなってしまった。同行していた医者が人力車を呼び、帰路を急いだが、加治村(現・愛知県田原市加治町)まで着いた頃には、人力車に乗っている事もままならなかった。この時邦助は初めて自分がコレラにかかった事を自覚した。 邦助は人力車を降り、近くの林に身を置いた。しばらく経ち役場の職員や妻じうが現場に到着したが、邦助は「自分が田原の街に入ったら大勢の人にコレラにうつってしまう」と署に帰ることを拒んだ。同時に、「私に近づくとコレラに感染する」と、人を近くに近寄らせなかった。その後またしばらく経って医者や警察官が到着したが、態度は変わらなかった。 仕方なく近くにあった小屋に邦助を運び入れると、妻じうが「私がしっかり看病して、近いうちに元気な姿をお目にかけます」と、集まった人々を説得し、人々を帰らせ、じう一人看病に専念した。 そして翌日、邦助は病魔に打ち勝てず25歳の生涯を閉じた。そしてその後じうも邦助を追うように19歳の生涯を閉じた。邦助が林に残ったことにより、田原では最小限に抑えることが出来た。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「江崎邦助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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