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江川 英龍(えがわ ひでたつ)は、江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太郎左衛門(たろうざえもん)、号の坦庵(たんあん)の呼び名で知られている。韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読むことが多い。 洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。 == 生涯 == === 世直し江川大明神 === 享和元年(1801年)5月13日、江川英毅の次男として韮山で生まれる。幼名は芳次郎。 江川家は大和源氏の系統で鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄である。代々の当主は太郎左衛門を名乗り、江戸時代には伊豆韮山代官として天領の民政に従事した。英龍はその36代目の当主に当たる。父・英毅が長命だった為に英龍が代官職を継いだのは天保6年(1835年)、35歳の時とやや遅い。この間の英龍はやや悠々自適に過ごしていたようで、時に江戸に遊学して岡田十松に剣を学び、同門の斎藤弥九郎と親しくなり、彼と共に代官地の領内を行商人の姿で隠密に歩き回ったりしている。 甲斐国では天保7年(1836年)8月に甲斐一国規模の天保騒動が発生し、騒動では多くの無宿(博徒)が参加していた。江川は騒動が幕領の武蔵・相模へ波及することを警戒し、8月に伊豆・駿河の廻村から韮山代官所へ帰還して騒動の発生を知ると、斎藤弥九郎を伴い正体を隠して甲斐へ向かう(甲州微行)。江川は同年9月3日に甲府代官・井上十左衛門から騒動の鎮圧を知ると韮山へ帰還した。その後も弥九郎との関係は終生続いた。 父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した人物として知られるが、英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行った。また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した。こうした領民を思った英龍の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛した。現在に至っても彼の地元・韮山では江川へ強い愛着を持っている事が伺われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「江川英龍」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Egawa Hidetatsu 」があります。 スポンサード リンク
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