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江戸屋敷 : ミニ英和和英辞書
江戸屋敷[えどや]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こう, え, ごう]
 【名詞】 1. inlet 2. bay 
江戸 : [えど]
 【名詞】 1. old name of Tokyo 
: [と]
 【名詞】 1. door (Japanese-style) 
屋敷 : [やしき]
 【名詞】 1. mansion 

江戸屋敷 ( リダイレクト:江戸藩邸 ) : ウィキペディア日本語版
江戸藩邸[えどはんてい]

江戸藩邸(えどはんてい)は、江戸時代江戸に置かれた藩邸屋敷)である。ただし、江戸時代当時の歴史的呼称ではなく、後世つくられた歴史用語である〔歴史学では、江戸時代の統治構造を指して幕藩体制と呼ぶことがある。しかし、明治初年に府藩県三治制が定められるまで、「」という用語・概念が広く用いられることはなかった。江戸時代を通じて、「藩」ではなく「」(イエ)を中心とした制度が運用された。〕。当時は、単に武家屋敷もしくは江戸屋敷と呼ばれ、個別の屋敷は当該屋敷を使用する武家の家名を付して○○家屋敷などと呼ばれた。
== 概要 ==
江戸時代、江戸に常住する武家には、江戸幕府から屋敷用地が与えられた。江戸に常住する武家には、将軍家と直接主従関係を結ぶ旗本御家人と、大名および大名の家臣がいた。このうち、幕府から屋敷用地が与えられたのは、大名、旗本、御家人であり、その屋敷が特に江戸藩邸と呼ばれるのは大名の屋敷である。
通常、大名には、江戸城周辺から江戸郊外にかけて、複数の屋敷用地が与えられた。大名の屋敷には当該屋敷の用途と江戸城からの距離により、上屋敷(かみやしき)、中屋敷(なかやしき)、下屋敷(しもやしき)などがあり、これらを総称して江戸藩邸と呼ぶ。すべての大名が上中下の屋敷を有したわけではなく、大名の規模によっては、中屋敷を持たない家や、上中屋敷の他に複数の下屋敷を有する家など様々であった。
「藩邸」は、後世に作られた言葉で歴史的には同時代の正確な用語ではない。というのは、幕府から与えられた屋敷用地は、「」(藩の統治機構)に与えられたものではなく、「家」(藩の領主)に与えられたものだからである。そのため、領主が転封などにより藩を変えた場合や身分を変えた場合でも所有者は変わらず〔1605年(慶長10年)に結城秀康越前藩)が拝領した麹町屋敷(上屋敷)は子・松平忠直(改易)から孫・松平光長高田藩新規立藩)に伝わった。また、1619年(元和5年)に松平忠昌(高田藩)が拝領した龍ノ口屋敷(上屋敷)は忠昌の福井藩相続後も変更されることはなく、次代藩主の松平光通に伝わり、1657年(明暦3年)の明暦の大火で消失した。ただし忠昌が「利便性」を選んだとも、兄の子を憐れんだためとも伝わる。〕、例えば○藩の藩主が甲家から乙家になったとしても、それまでのいわゆる「○藩藩邸」(甲家の江戸屋敷)の所有者は甲家のままで、乙家の屋敷もそのままである。ただし、幕府の命令により(相対替えなど)身分相応の立地・面積のものに変えられることはあったが〔例えば、五十万石の格式を持った家が減封処分となり五万石となった場合、以降の格式・財政ではこれまでの大屋敷を維持できず「身分不相応」とされ屋敷を替えられることがあった。〕、これらもあくまで「家」に対するやり取りであった。
以上のように、江戸時代には藩(行政組織・行政上の単位)の所有する屋敷(藩邸)という概念は存在せず、江戸藩邸は各藩主家の江戸屋敷と呼ばれていた。個別の屋敷については「◯◯家屋敷」と呼称され、通常は複数の屋敷を所有するため、例えば尾張藩の徳川家の上屋敷であれば、「尾張徳川家上屋敷」とされた。なお、京都や大坂の屋敷については、京都藩邸、大坂藩邸よりも京屋敷、大坂屋敷といった呼び方が現在も一般的である。
江戸藩邸のうち、上屋敷は参勤交代制度により1年毎(大名により異なる)に江戸と本国を行き来する大名の、江戸における居住地であった。また、大名の正室嫡子は人質として江戸に常住することが定められており、上屋敷に居住した。家臣では江戸家老江戸留守居役(御城使)など江戸に在勤した役職もあるが、多くの家臣は大名の参勤交代に従って本国から江戸に移り、下級の武士は藩邸内に設けられた長屋などに居住した。貞享元年(1684年)の土佐藩の場合、江戸藩邸全体の居住者は3195人(うち上屋敷で1683人)を数えた。大名にとっては本国の居所と同様の重要な屋敷であり、格式を維持するため莫大な費用を必要とした。
江戸藩邸は幕府と藩を繋ぐ政治的な窓口の役割も果たした。幕府からの連絡は藩邸に伝えられ、その後藩邸から本国へ伝えられる。一方、本国から幕府へ連絡する場合も、藩邸を経由して伝えられた。また、江戸藩邸の内部は幕府の統制外に置かれ、仮に犯罪者が藩邸内に逃げ込んだとしても、幕府が捜査権を行使することはなかった。
屋敷の広さには石高による基準が存在し、元文3年(1738年)の規定では、1–2万石の大名で2500坪、5–6万石で5000坪、10–15万石で7000坪などとされていた。実際にはこの基準より広い屋敷も多く、上屋敷だけで10万坪にも達した加賀藩などの例もあり、厳密な適用はされていなかった。屋敷や土地は形式上幕府から借り受けたものであるが、幕府の許可を得た上で相対替え(屋敷同士の交換、差額を金銭で補う)という形を取り売買は行われた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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