|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 江 : [こう, え, ごう] 【名詞】 1. inlet 2. bay ・ 総 : [そう] 1. (n,pref) whole 2. all 3. general 4. gross ・ 総書 : [そうしょ] 【名詞】 1. series (of publications) 2. library (of literature) ・ 書 : [しょ] 【名詞】 1. penmanship 2. handwriting 3. calligraphy (esp. Chinese) ・ 書記 : [しょき] 1. (n,vs) clerk 2. secretary ・ 記 : [き] (n,n-suf) chronicle
江 沢民(こう たくみん、チアン・ツーミン、1926年8月17日 - )は、中華人民共和国の政治家。鄧小平引退後の中国の最高指導者で、中国共産党中央委員会総書記、中華人民共和国主席、中国共産党中央軍事委員会主席、中華人民共和国中央軍事委員会主席を務めた。 == 経歴 == === テクノクラート === 江蘇省揚州市に生まれる。江沢民の実父江世俊は、日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関に協力をしていた〔宮崎正弘『出身地でわかる中国人』(PHP研究所、2006年)、91ページ。〕。叔父の江世侯(上青)は中国共産党の幹部であったが、嫡男を得ないまま1939年に日中戦争に地元匪賊に殺害された〔矢吹晋『中国の権力システム ポスト江沢民のパワーゲーム』(平凡社〈平凡社新書〉、2000年)。なお、この著書の内容は著者のウェブサイト「矢吹晋中国研究室」でも閲覧できる(2010年9月5日閲覧)。〕。江沢民は、公式にはこの江世侯の養子ということになっているが、本家の次男である江沢民が、祖父からみて第6子にあたる叔父江世侯の養子となるのは、中国の家族慣行では異例であり、「漢奸の息子」という出自を隠すためと考えられている〔矢吹晋『激辛書評で知る 中国の政治・経済の虚実』(日経BP社、2007年)、74ページ。〕。 1943年に楊州中学卒業後、汪兆銘政権下の南京中央大学に入学し、日本語を専攻する〔。日中戦争終結後の1945年10月に南京中央大学が上海交通大学と合併したため、江沢民は上海交通大学に転籍し、1947年に卒業した。江沢民の経歴を語るとき、南京中央大学に在籍していたことについて触れられることは少ない。1946年4月、中国共産党に入党。このときの江は、大学の党支部書記など指導的立場ではなく、一党員に過ぎなかった。 上海交通大学卒業後、上海市で食品工場や石鹸工場のエンジニアとして働く。中華人民共和国建国後の1953年、第一機械工業部上海第二設計分局電力専業科長となる。翌年、長春第一汽車製造廠(自動車製造工場)に移る。後に江沢民政権下の国務院常務副総理(第一副首相)となる李嵐清とは長春第一汽車製造廠時代の同僚である。1955年には機械技術者としてモスクワのスターリン自動車工場で研修を受ける。帰国後、長春第一汽車製造廠動力処副処長、副総動力師、動力分廠廠長を歴任。1962年、上海に戻り、第一機械工業部上海電器科学研究所副所長となる。1966年、第一機械工業部が武漢市に新設した武漢熱工機械研究所の所長兼党委員会書記代理に任命される。同年に発動された文化大革命では実権派として攻撃されたものの、「革命烈士の子弟」とされたため、被害は少なかった。 1970年、北京に移り、第一機械工業部外事局副局長に任命される。翌1971年、ルーマニアのチャウシェスク政権との友好関係推進のため、同国での機械工場建設プロジェクトに対して中国から視察団が派遣されることになり、江はその団長として1年間同国に滞在する。帰国後、第一機械工業部外事局長に就任。1980年8月、国家輸出入管理委員会副主任(次官)兼秘書長となり、翌月には国家外国投資管理委員会副主任兼秘書長も兼務して、貿易・外国投資に関する業務を担当した。 1982年5月、新設された電子工業部の第一副部長(副大臣級)に任命される。同年9月、第12回党大会において中央委員に選出。翌1983年6月、電子工業部部長(大臣)に就任する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「江沢民」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Jiang Zemin 」があります。 スポンサード リンク
|