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哲宗(チョルジョン(チョルチョン)、、てっそう、道光11年6月17日(1831年7月25日) - 同治2年12月8日(1864年1月16日))は、李氏朝鮮の第25代国王(在位:1849年 - 1863年)。姓は李、諱は、諡は忠敬〔熙倫正極粹徳純聖欽命光道敦元彰化文顕武成献仁英孝大王。大韓帝国時代の1908年、哲宗章皇帝を追贈される。 == 生涯 == 正祖の弟・恩彦君の息子である全渓大院君と龍城府大夫人廉氏の三男、すなわち荘献世子の曽孫として生まれた。恩彦君には本来息子が3人いたが、2人の息子は権力争いの犠牲となり、全渓大院君だけが生き残った。全渓大院君にも3人の息子がいたが、長男・懐平君は自身の推戴事件のため処刑され、そのため元範(のちの哲宗)らは連座して江華島へ流されていた。 純祖の王妃・純元王后は、憲宗が後嗣のないまま死去すると、安東金氏が権力を維持するため、豊壌趙氏一派が王位を立てる前に、江華島にいた憲宗の再従叔父となる元範を宮廷に呼び入れ、徳完君に冊封した。 1849年6月9日、徳完君は昌徳宮において19歳で朝鮮国王に即位した。大王大妃となった純元王后は、哲宗が政治に対する知識がなく年も若いという理由で垂簾聴政を始めた。哲宗はその3年後に親政をしたが、一切の権力は勢道政治勢力である安東金氏に握られていた。 安東金氏一派の権力濫用により、国内では貪官汚吏が跋扈し、三政(田政・軍政・還穀)は大いに乱れた。また洪水と日照り、火事などの災害も頻発したことから、民衆の間では飢餓が蔓延した。このため民衆の反乱が全国的な規模で起きたが、朝廷では反乱が起きる根本的な原因を知ろうともせず、哲宗にも安東金氏の勢力を抑え対抗する力はなかった。苦痛で喘ぐ民衆の間では、崔済愚による、すべての人が天であると主唱する東学思想が急速な勢いで広まった。また、キリストの前での平等を唱えるカトリックも、一般民衆のみならず両班層にまで浸透し、宮女の中にカトリック信者がいたほどであった。 哲宗自身は、民心に気を配り、カトリックに対しても寛大であった。しかし哲宗の権力を支持していた南人が、執権層の老論僻派によるカトリック弾圧で粛清され、哲宗自身も安東金氏による勢道政治の中では自分の政治権力を行使できないということを悟り、酒色にふけるようになった。1863年12月、在位14年、33歳(数え年)で後継者のないまま死去。陵墓は睿陵。哲宗の死後、17代孝宗の系統から王が出ることはなく、孝宗の弟(16代仁宗の三男麟坪大君)の八世孫である高宗が王位を継ぎ、その系統が李王家となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「哲宗 (朝鮮王)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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