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江藤 源次郎 (えとう げんじろう、本名 片岡源次郎 1867年5月15日 – 1924年5月8日)は佐賀県有田町出身。有田焼絵師となり、19世紀末にアメリカニューヨークに渡る。西洋油彩、印象派の洋画を学びエトー・ゲンジロウまたはカタオカ・ゲンジロウの名で、画家、小説の挿絵画家、ステージデザイナーとして活躍した。特に、アメリカ ではコネチカット州コスコブのアメリカ印象派画家達にジャポニスムを普及した点が評価されている。同地に日本文化紹介などもしている。 == 経歴 == 江藤源次郎の本名は片岡源次郎、慶応3年(1867年)に肥前国有田(佐賀県有田町)で生まれた。片岡家の家業は有田焼(伊万里焼)の絵師であった。江副家に養子に入り絵師として経験を積んだ。明治24年(1891年)に24歳で家業である有田焼の販売のために単身ニューヨークマンハッタンをめざし渡米した。江副家は日本美術工芸品販売専門の起立工商会社の社長で佐賀出身の松尾儀助とは知り合いで、その関係で源次郎に起立工商会社のニューヨーク支店を紹介したとも考えられる。何故「江藤」の苗字に変えたのか不明。「江副」がなまってそうなったのか。源次郎は1893年に開催されたシカゴ万国博覧会の日本館での有田焼などの出展を手伝うことになった。同博覧会のアティウッド美術(Atywood's Fine Arts)館では当時のアメリカ油彩の代表的画家であるジェームズ・ホイッスラー(James A. Whistler), チャイルド・ハッサム(Childe Hassam),ウィリアム・メリット・チェイス(William Merritt Chase), ジョン・シンガー・サージェント(John Singer Sargent),トマス・エイキンズ(Thomas Eikins)などの展示もあり、源次郎の目に触れたとも考えられる。 1894年6月、理由は不明だが源次郎は江副家との養子縁組を解消、苗字を「片岡」に戻した。但し、ペンネームとしてはそのまま「エトー・ゲンジロー(江藤源次郎)」の名前を継続している。 当初の有田焼販売には関心を失い画家を志し、1895年2月美術専門学校アート・ステューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学。28歳であった。特にアメリカ印象派画家として指導の立場であったロバート・ブラム(Robert Blum), ジョン・トワックマン(John Twachtman)に師事し、油絵、印象派の画法を学んだ。生徒であったエルマー・マックレー(Elmer McRae)とも既知になった。彼が履修した1894~95年のコースの記録がある。それによると登録名はガンニジェロ・イェトー、科目の一部を紹介すると午前の部のウィリアム・メリット・チェース講師の油彩実技(M.P.)、アービング・ワイルス講師のスケッチ(W.S.)などである。源次郎は新たにアトリエを5番街14番通り近くのビルの一室に構えた。 1896年よりジョン・トワックマン師の誘いでコネチカット州コスコブ町にある賄い付き宿舎ホーリーハウス(現グリニッチ歴史協会所有の博物館)における同美術専門学校のサマークラスに参加した。そして1901年までホーリーハウスに滞在した。当時マンハッタンからコスコブまでは既に鉄道が開通され足の便があった。コスコブは当時まだ植民地時代の古風な家が立ち並び、広いミアナス河の河口に位置し、風光明媚なロンガイランド・サウンドに面していて、豊富な画題となる景色を提供する場所であった。このコスコブのホーリーハウスにおける画家の集まりが後「コスコブ・アートコロニーCos Cob Art Colony」と呼ばれるようになりアメリカ最初の印象派の発祥の地となった。西洋画、油彩を勉教する中で、同クラスのアメリカの若い画家達に日本画の画法・特徴なども教えている。当時既に名声を博しているジョン・トワックマン、チャイルド・ハッサムらも触発され、日本の画法を取り入れた絵が何点か残っている。 1897年には友人となったエルマー・マックレーと一緒に同校でコスコブ展覧会開催を手伝っている。精力的に水彩画を描き、ニューヨーク水彩画クラブ(New York Water Color Club), フィラデルフィアのナショナル・アカデミー・デザイン(The National Academy Design), ペンシルベニア美術アカデミー(The Pennsylvania Academy of the Fine Arts), フィラデルフィア・美術・クラブ(The Art Club of Philadelphia)などに出展している。 画業のかたわらこの時期、コスコブの地では宿主ジョゼフィン・ホーリー夫人の計らいで婦人らに着物を着かせテラスで茶会を催し、地元の人々に日本文化を紹介している。また、近所のリバーサイド町に住む生糸貿易で財をなした新井領一郎の夫人田鶴もホーリー家で活け花を紹介している。 画家として生計を立てるのは楽でなく、絵画も高い値で売れず彼は日本関連の小説の挿絵画家としても活躍した。その中には野口米次郎著(イサム・ノグチの父)のThe American Diary of a Japanese Girlの挿絵、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)著「骨董」の挿絵など多数ある。 1900年にはステージ・デザイナーの仕事も手がけ、「マダム・バタフライ(蝶々夫人」劇(ヘラルド・スクエア・シアターHerald SquareTheater)の文化アドバイザーに任命され、ステージの絵を描くとしているが、使用道具などの細かい指導のみしたとも言われている。 1901年5月、最初の個展をニューヨークのキャリア・ギャラリー(Currier Gallery)にて開催、水彩画150枚、本の表紙挿絵40枚など展示した。 1904年には一時帰国し8月に川内エンと結婚。この間多くの水彩画を描き、翌年単身渡米したときに多数携帯した。日本画と印象派の西洋画の融合は当初アメリカ画壇で好評を受けたが、そのユニークな画法を続けていく限界を知って水彩画中心の日本画を描くようになった。翌々年に長女米(よね)誕生。 1906年には精力的にニューヨーク,ボストン、バッファロー、デトロイト各地で展覧会を開催、同年ニューヨーク市のサルマガンディ・クラブ(Salmagundi Club)水彩画展でモルガン(Morgan)賞受賞している。同年、肖像画の巨匠トマス・エイキンズ(Thomas Eakins)の手助けによりフィラデルフィアに展覧会を数回開催している。この時期エイキンズに肖像画を描いてもらったが、急な帰国で彼のサイン無しで日本に持ち帰った。その旨を書いた彼への礼状が現存しているがその肖像画は行方不明となっている。 1909年、エイキンズ紹介のブルックリン美術館芸術員であるステュアート・キューリン(Stewart Culin)を日本で迎え、日本美術品買い付けの手伝いの傍ら、家族で鎌倉、仙台などを案内している。この時期には彼の苗字は「片岡」に戻している。同年再び渡米、12月にニューヨークのマディソン(Madison)画廊で水彩画展覧会を開催。 1911年、44歳を最後に、帰国し、東京の千石(現、東京市小石川)に住居を構え、逓信博物館(現在の逓信総合博物館)に勤務。もちろん国内でも絵を描き続け太平洋画会(現在の太平洋美術会)に所属した。展覧会に出品もしているが、画壇の主流ではなかったためかアメリカでの成功ほどには評価されていない。 1912年、ステュアート・キューリンが再来日した際には美術品収集を手伝い、一緒に歌舞伎、能(画家の野口米次郎と同伴)などを観賞、夜は源次郎は家族(妻と子供二人)を伴い食事をしている。 1924年、57歳結核で亡くなった。コスコブ・アート・コロニーに集まった画家たちに繊細な日本画の技法を教えてジャポニスムを起こし、ジョン・トワックマン(John Twachtman)、チャイルド・ハッサム、トマス・エイキンズ画家などの巨匠と直に交流し、画壇における日米交流の先駆的役割を果たした最初の日本人であった。グリニッチ歴史協会には今でも彼の写真とマックレーが描いた源次郎の肖像画が大切に保存されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「江藤源次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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