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池田 宏平(いけだ こうへい、1881年(明治14年)12月22日〔『海軍兵学校出身者戦死者芳影録』p122〕 - 1905年(明治38年)5月30日)は、日本の海軍軍人。日本海海戦で戦死した海軍中尉である。大蔵大臣などを歴任した池田成彬は兄。従七位勲六等功四級〔『日本海軍士官総覧』p110〕。 == 来歴 == 海軍兵学校30期。山形県米沢市出身。父は米沢藩士・池田成章。同期生に百武源吾、松山茂などがおり、米沢からは今村信次郎、下村忠助など7名が入校している〔『興譲館人国記』「今村信次郎」〕。兵学校卒業後の遠洋航海から帰国した1903年(明治36年)12月、海軍少尉に任官し、ほどなく日露戦争開戦を迎えた。 池田は新造駆逐艦の配置を希望し〔『異色の提督 百武源吾』p28〕、第二駆逐隊所属の「雷」へ配属となる。日本海海戦の初日である1905年(明治38年)5月27日、日本海軍の駆逐隊、水雷艇隊はバルチック艦隊に対し夜間攻撃を実施した。午後8時15分、「雷」は北方からバルチック艦隊に肉薄。水雷長であった池田は照準を行い、魚雷発射命令を下そうとしたが、砲弾が命中。池田は左胸部に重傷を負い、部下に支えられながら発射命令を下した〔『陸海勇士100選』「池田宏平」〕〔『陸海勇士100選』では「スヴェトラーナ」に命中としている。〕。 翌28日、竹敷要港部の病院に収容されたが、30日に死去。海戦での日本の勝利を告げられた際に、「万歳」の言葉を残している。池田の軍帽は兵学校の教育参考館に陳列された〔『異色の提督 百武源吾』〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池田宏平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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