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池田 徳真(池田 徳眞、いけだ のりざね、1904年(明治37年)6月16日 - 1993年(平成5年)12月6日)は、旧鳥取藩主池田氏第15代当主。 == 生涯 == 侯爵池田仲博の次男として東京市麻布区市兵衛町で生まれた。「徳」の字は大伯父にもあたる第12代当主・池田慶徳からの偏諱である。 1921年(大正10年)1月26日、横浜正金銀行頭取の原六郎夫人である登美子から、衆議院議員の根本正が訳した『日々の力』(メアリ・ダブリュー・ティレストン著)という一日毎に聖書の一節が書いてある本を頂いた時、初めて聖書の聖句触れた。この事を徳眞は、自分がクリスチャンになるための主のお導きとしている。 同年2月に学習院にてクリスチャンの友人から伝道されたが、信仰へは至らなかった。 翌年、徳眞に第二の主のお導きが訪れた。父方の縁戚である朽木綱貞子爵の妻、芳子夫人から、新約聖書と、ジョン・バニヤンの天路歴程、ヨセフ物語を題材とした『おとし穴より』と他二冊のキリスト教に関する書籍を贈呈される。 この内、新約聖書には徳眞が学習院小学校時代の級友で、机が隣だった朽木昌綱の写真が貼ってある記念品であった。(昌綱は朽木夫妻の息子で、小学校一年を終えた頃にジフテリアで若死にした) しかし、家に持ち帰って数日後、徳眞がキリスト教に興味を持つことを快く思わなかった両親が新約聖書のみ没収する。 新約聖書のみ没収されたことを耳にした朽木夫妻は1923年(大正12年)4月23日、徳眞を自宅へ呼び、「信仰というものは個人ことで、親が干渉すべきことではありません。だからこの聖書は、あなたのものです」と、改めて英語版と日本語版の旧新約聖書を贈呈した。この時、朽木綱貞は旧約聖書の詩篇103篇15-16節と伝道の書5章10-11節を引用して徳眞に「今あなたの家はお金持ちです。しかし、富よりも、科学よりも、もっと貴いことが、この聖書には書いてあるのです。よく勉強しなさい」と言った。この第三の主のお導き(本人曰く、第三段階)が、徳眞がクリスチャンになる、きっかけとなった。 同年9月1日、鎌倉で関東大震災に罹災し、母、池田亨子を失う。何故、母だけが死ななければならなかったのかと悩む中、 同年11月に朽木夫妻にメソジストの日本伝道隊として活動していた御牧碩太郎を紹介され、(本人曰く第四段階)教会や集会に通うようになり信仰を深めていった。 *1928年(昭和3年)4月1日、東京帝国大学文学部言語学科に入学。旧約聖書に使われているヘブル語を中心に学ぶ。 *1929年(昭和4年)4月10日、山下信義宅にて御牧碩太郎により浸礼を受ける。 *1931年(昭和6年)3月31日、東京帝国大学文学部言語学科卒業。卒業論文は「旧約聖書にあるアラム語の研究」。同年5月16日、朽木夫妻の娘、美知子と結婚。 *1932年(昭和7年)6月17日、夫婦揃って渡英へ。日本郵船の照国丸でフランス、マルセイユを目指して神戸を出港。 *1933年(昭和8年)10月1日、イギリスのオックスフォード大学ベーリオル・カレッジに入学。 *1935年(昭和10年)12月31日、同大学を自主退学 *1943年(昭和18年)11月3日から、アメリカ軍捕虜による対米ラジオ放送「日の丸アワー」に関わった。実際の放送期間は1943年(昭和18年)12月2日から1945年(昭和20年)8月14日まで。晩年に戦時中の活動や信仰生活に関する回顧録を著している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池田徳真」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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