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池田 政善(いけだ まさよし、文化8年5月9日(1811年6月29日) - 弘化4年4月27日(1847年6月10日))は、備中国鴨方藩の第8代(とされる)藩主。 第6代藩主・池田政養の三男または四男。母は側室・岩田氏。正室は山内豊敬の養女(福原資敬の娘)。子に政樹、宇多子(池田慶政正室)。官位は従五位下、信濃守。幼名は虎吉、甚次郎。諱は初め政広、のち政敏、政善。 文政7年(1824年)、兄で先代藩主の政共が早世したため、その養嗣子となって跡を継いだ。文政9年(1826年)に将軍徳川家斉に初御目見し、元服する。 弘化3年(1846年)10月4日、在所で死去したものの、鴨方藩は幕府に死亡届けを出さなかった。病弱な嫡子・政樹の相続を避けようとしたためと考えられる。弘化4年(1847年)3月13日、病気を理由に幕府に参勤交代の延期を願う。同年3月17日、政樹の廃嫡願を提出する。同年4月26日、急養子願を提出し、池田政詮(後の池田章政)の相続を願う。同年4月27日、幕府に死亡届けを出した。公的には、同日に38歳で死去したことになっている。 == 兄弟の入れ代わり == 政共が生前に仮養子に指名していたのは、嫡出の同母弟(母は池田宗家の池田治政の娘)の甚次郎(奄有、文化7年12月9日(1811年1月3日) - 天保10年8月21日(1839年9月28日))で、政共が急死した際には甚次郎が末期養子として跡を継いだ。しかし、甚次郎は生来病弱で、家督相続に伴う諸行事もままならず、その都度名代を立てねばならない有様であった。甚次郎が17歳になるまで待って、その上で新たな養嗣子に家督を継がせることも考えられたが、初御目見が無事に迎えられるかさえ危ぶまれた。そこで鴨方池田家では、文政8年5月1日(1825年6月16日)、甚次郎の7ヶ月後に生まれた(旧暦上は翌年生まれになるので数え年では1歳下になる)庶出の弟の虎吉を身代わりにして「甚次郎政広」を名乗らせ(のち政敏、政善と改名)、密かに家督相続者のすり替えを行った。元の甚次郎は剃髪して池田栄を名乗ることになったが、こちらは「虎吉」であったことにされた。栄は28歳で没した。 以上は「池田氏系譜」の記録による。『寛政重修諸家譜』や明治政府に提出した「家系・家譜」では、政共の跡を嫡出の同母弟の政善が継ぎ、栄(幼名・虎吉)は彼らの庶出の弟であったことになっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池田政善」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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