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池田 章政(いけだ あきまさ、天保7年5月3日(1836年6月16日) - 明治36年(1903年)6月5日)は、備中国鴨方藩の第9代藩主。備前国岡山藩の第10代(最後の)藩主。岡山藩池田家宗家の第12代当主。栄典は従一位勲一等侯爵、麝香間祗候。 肥後国人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男。正室は戸田氏正の娘鑑子。子は池田政保(長男)、池田詮政(次男)。備前守、侍従、左近衛権少将。幼名は満次郎。鴨方藩主時代の名乗りは池田 政詮(いけだ まさのり)。 頼之の祖父の相良長寛は岡山藩の第4代藩主池田宗政と正室(宝源院・黒田継高の長女)の次男であり、章政は宗政の男系の玄孫にあたることから、鴨方藩池田家、のちには岡山藩池田家宗家の養子に迎えられることになった。 == 生涯 == 弘化4年(1847年)3月5日、鴨方藩の第8代藩主池田政善の末期養子となるため、人吉から江戸に入る。同年3月下旬、江戸の人吉藩邸から鴨方藩邸に移る。同年7月、鴨方藩主池田政善の末期養子として家督を相続した。嘉永2年(1849年)12月、従五位下内匠頭に叙任する。後に信濃守に改める。幕末の動乱期の中では尊皇攘夷派として行動し、藩内における尊皇攘夷派からの信望もあった。 慶応4年(1868年)3月15日、章政は宗藩の岡山藩主を継いだ。先代藩主の茂政が新政府からの実兄徳川慶喜の追討の命令を受け、隠居したためである。鴨方藩主は章政の長男の政保が継いだ。そして章政は戊辰戦争においては新政府軍に与して藩軍を関東・奥羽・函館にまで送った。明治2年(1869年)の版籍奉還により藩知事となる。明治4年(1871年)、廃藩置県により免官となり、東京へ移った。明治36年(1903年)、従一位となったが、同年6月5日に68歳で死去した。法名は珠国院殿琢堂勳記大居士。墓所は岡山県岡山市中区円山の曹源寺。家督は次男の詮政が相続した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池田章政」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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