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池田輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4日 - 1921年(大正10年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。 == 生涯 == 1883年(明治16年)1月4日、東京市京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。1895年(明治28年)に水野年方に内弟子として入門。1899年(明治32年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。1902年(明治35年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌1903年(明治36年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。他方、鏑木清方らによって1901年(明治34年)に結成された烏合会にも、結成直後から参加、1903年(明治36年)の同会の第6回展に「暮靄」と、同門の榊原蕉園(のちの池田蕉園)をモデルとした「墨染」を、第8回展には「奥勤め」を出品した。 この年に師・清方の立会いの下、榊原蕉園と婚約するも、自身は直後に別の女性と失踪、さまざまな曲折ののち、蕉園とは1911年(明治44年)に結婚した。この事件の顛末は田口掬汀によって連載記事「絵具皿」として万朝報に掲載され話題となる。この間1907年(明治40年)には川合玉堂に師事しており、風俗画に特色を示している。また、同年、浮世絵に惹かれて来日していたフランス人の浮世絵師ポール・ジャクレーに日本画を教えている。 1912年(大正元年)の第6回文部省美術展覧会(文展)では「都の人」が褒状、1914年(大正3年)の第8回展では「両国」で3等賞、1915年(大正4年)の第9回展では「木挽町の今昔」で2等賞を受賞し、1916年(大正5年)の第10回展では「夕立」(山種美術館蔵)で妻の蕉園とともに特賞を得た。翌1917年(大正6年)には徳田秋声の『誘惑』、小杉天外の『七色珊瑚』の挿絵を蕉園と共作。1919年(大正8年)の第1回帝国美術院展(帝展)では江戸時代の絵師・英一蝶の流刑を画題とした「絵師多賀朝湖流さる」(島根県立石見美術館蔵)が推薦出品とされ、浮世絵の精神、造形美を受け継ぐ画家としての評価を確立した。同年石井林響(1884-1932)、山内多門(1878-1932)と如水会を結成。また、巽画会や下萌会にも作品を出品した他、美人画、風俗画を得意とし、雑誌や新聞の挿絵も多く描いている。1921年(大正10年)5月6日、肺患のため没〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)3頁〕。墓所は台東区谷中の谷中霊園。 没後の1924年(大正13年)、浮世絵と同じ技法による新版画「新浮世絵美人合 一月 かるた」が版行された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池田輝方」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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