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池 真理子(いけ まりこ、1917年1月2日 - 2000年5月30日)は、京都府生まれ。ジャズ・ラテン・フォルクローレの歌手。宝塚音楽学校卒業。愛称は「アイク」。なお、サインや後年のテレビ出演のテロップでは池眞理子となっている。宝塚歌劇団24期生。宝塚歌劇団在団時の芸名は三日月美夜子である。 == 略歴 == 1917年(大正6年)1月2日、京都生まれ。 生後6ヶ月で父が亡くなり、母は女学校教員となったため、祖父母の手で養育された。 ミッション女学校卒業後、母の薦めで1934年(昭和9年)宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)に入団。同期生に天城月江、寶登茂子らがいる。三日月美夜子の芸名で声楽専科に在籍するも、一向に芽が出なかった。 友人に誘われて、初めて行った東山のダンスホールでジャズの魅力にとりこになり、親族の反対を押し切り、1937年(昭和12年)に宝塚少女歌劇団を退団する。 その後、東山ダンスホールで、歌うコンダクター(指揮者)として、人気を博するも1940年(昭和15年)ダンスホール閉鎖。その後、三島一声・一色皓一郎の推薦で佐々木俊一の内弟子となり、翌年ビクターから「君と別れて」(一色との共唱)でレコードデビューする。 さらに第2弾「青いリボンのお嬢さん」も吹き込まれたものの、リボンが検閲にひっかかり、発売中止に。 そのことなどもあり、ニッチク(戦時中の日本コロムビア)へ移籍。慰問隊員として全国を回る。 終戦を迎え、レコード会社でも早速アメリカ調の曲を発売することになり、池に白羽の矢が立ち、コロムビアから改めて「愛のスウヰング」でデビュー。大ヒットし、スウィングの女王と呼ばれるようになり、その後も「センチメンタル・ジャーニー」「愛の散歩」「ボタンとリボン」など、洋楽または洋楽調のヒットを連発した。 特に「ボタンとリボン」は、歌詞の『バッテンボー』が流行語になるほどのヒットだった。 私生活では、作詞家の鈴木アラン勝(鈴木大拙の長男あるいは養子)と結婚し、一女(セラピストの池麻耶)を儲けるが、1959年(昭和34年)離婚。 1960年(昭和35年)に渡米。娘を知人である米人夫婦に預け、全米各地を回る。 8ヵ月後、ラテン系の新リズム「パチャンガ」を土産に帰国。 そしてラテン音楽に目覚め、それから8年間ラテンに専念。 1966年、宝とも子らと日本ラテン音楽協会(現・日本ラテンアメリカ音楽協会/アムラン)を設立 1970年から1971年(昭和45から46年)頃より、フォルクローレに興味を持ち始め、1973年(昭和48年)には本場ペルーの首都リマで単独コンサートを催した。また和製フォルクローレ曲「インカ王女の子守唄」も披露した。 その後も、音楽の道への追究は続き、1980年代にはロシア音楽に興味を持ち、「百万本のバラ」などを原語で披露するまでに至る。歌手生活40周年コンサートでは都都逸まで歌った。 また、1982年(昭和57年)からは二葉あき子、並木路子、安藤まり子、柴田つる子と「コロムビア五人会」を立ち上げ、老人ホーム慰問からハワイ公演、演劇まで幅広く活動した。 1995年には、デビュー50周年記念で、並木路子・岡本敦郎とそれぞれ新曲を発売し、健在振りをアピールした。なお、池・並木・岡本の3人は、同じコロムビアに所属し、デビューも同期(彼らが戦後第1号の歌手デビュー)であった。このことは、池や並木が、後年出演したテレビ番組の中で自ら語っている。 最晩年までテレビ/ラジオ/舞台に活躍し続けたが、2000年(平成12年)5月28日、ホテルでの歌謡ショーで「センチメンタル・ジャーニー」を歌い終わった直後にクモ膜下出血で倒れ、同月30日逝去。享年83。 愛称はアイク(名字(IKE)、及びアイゼンハワー米大統領のニックネームから) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池真理子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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