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池部 良(いけべ りょう、1918年2月11日 - 2010年10月8日)は、日本の俳優・随筆家。東京市大森区出身。立教大学文学部英文科卒業。 == 来歴 == 大学では富田彬などから学ぶとともに、映画監督になるのを夢見て在学中の1940年に東宝撮影所のシナリオ研究所に研究生として入り、1941年に卒業と同時にシナリオ研究所を卒業し東宝に入社する。監督希望だったが戦時下の作品制作数の大幅減少で助監督の空きがなく、文芸部に配属。早々部長に、面食いだからと当時子役の大スターだった中村メイコの子守を命じられ、彼女の大絶賛を聞いた映画監督・島津保次郎に請われて『闘魚』に脇役で出演する。それが好評となり知的でスマートな若手俳優のホープとして目された。 1942年の『緑の大地』のクランク・アップの翌日に陸軍に召集され、中国山東省に派遣された〔「復員までの苦労なんてものは筆舌につくしがたいですよ。とにかく俳優をしてたというだけの理由で、上官から理不尽な殴る蹴るの暴行を受けるんですからね」(関容子『再会の手帖』幻戯書房2007年)。〕。大学卒ということで幹部候補生試験への受験を勧められるが〔、任期が長くなる(当時、兵隊のままだと任期は2年とされていた)ため断るが、上官に無理やり受けさせられ白紙で答案を提出したにもかかわらず甲種幹部候補生にされ、厳しい訓練を受けた。1943年11月見習士官(曹長)に任官後、陸軍少尉となる。1944年に南方戦線に移動される。5月12日、輸送船が敵潜水艦に撃沈されセレベス海に投げ出され10時間泳いだ後、日本海軍の艦船に救出されインドネシア北東部のハルマヘラ島へ配属された。食料、弾薬ともに豊富なハルマヘラ島に配属された彼らは1944年9月アメリカ軍のすさまじい艦砲射撃、空爆を受けてジャングルに逃げ込んだ。 、少尉ながら衛生隊本隊を任され終戦まで戦い、終戦時の階級は中尉だった。 1946年6月まで抑留され、南方から苦労して復員船に乗る。他の隊の将校は海に放り込まれたりするが、池部隊では部下が円陣を作って隊長を守ってくれ、日本に帰る〔(関容子『再会の手帖』幻戯書房2007年)。〕〔。腸チフスに罹患した池部は俳優を続けるかどうか決めかねていたが、東宝や高峰秀子に熱心に請われ、特に高峰には市川崑を付き添いに疎開先の茨城県の山村にまで直接訪れて説得され、俳優に戻る〔。映画界に復帰した池部は日本共産党とそのシンパによる東宝争議に1948年秋まで煩わされた。 175cmの身長と渋い容貌を生かして次々と主演作品をヒットさせる。1948年に女優の羽鳥敏子と結婚したが離婚。その後も青春スターの第一人者として活躍を続けた。特に1949年の『青い山脈』では当時30代だったにもかかわらず、旧制高校の生徒をさわやかに演じ、戦後の自由な雰囲気を象徴する映画として大ヒットした。その後は1950年に新東宝の『暁の脱走』、1952年に松竹の『現代人』と他社の作品にも出演。特に『現代人』では池部がそれまでの二枚目スターから演技派俳優として最初に認められるようになった作品であった。『坊っちゃん』(1953年)、『雪国』(1957年)、『暗夜行路』(1959年)などの多くの文芸作品で翳のある青年を演じ、文芸路線や都会派映画に欠かせない二枚目スターとして君臨した。1960年代に入ると徐々に脇役に転じたが、1964年に主演した『乾いた花』でのヤクザ役が評判となる。この頃、18歳年下の女性と再婚した。1960年代からはテレビドラマにも出演し始めた。 1965年、石原裕次郎・里見浩太郎・山城新伍ら俳優が暴力団のために拳銃密輸していたことが明るみに出た。警察庁は芸能興行関係者に暴力団との腐れ縁を絶てと強い調子で警告。同年2月22日、日本映画俳優協会会長であった池部は映画俳優と暴力団との完全絶縁を表明した。同年9月、東宝を離れ池部プロダクションを設立。自ら映画を企画しストーリーを書くようになるが、1967年に1億円の負債を抱え倒産してしまった。同年、東映より高倉健主演『昭和残侠伝』(1965年)の出演を依頼されたが、妻が強く反対し、当初は断っている。しかしプロデューサー俊藤浩滋による再三の申し入れもあり、「入れ墨を入れないこと、毎回殺されること、ポスターでの露出を小さくすること」を条件に出演を承諾した〔。公開された『昭和残侠伝』は大ヒットし、役名は毎回違ってもニヒルで主人公を支えるヤクザ役でシリーズを支えていく。なかでも『昭和残侠伝 死んで貰います』(1970年)で池部演じる風間重吉がクライマックスで高倉に語る「ご一緒、願います」は流行語となった。このほかの東映作品では池部が元警視総監を演じた千葉真一主演『直撃! 地獄拳』が1974年度に4億1700万円の配給収入を上げ、同年度の日本映画配給収入ランキング第5位に入った。アメリカ合衆国では『The Executioner』というタイトルで1999年現在、10万本以上のビデオが売れている。 1983年より2009年まで創設された日本映画俳優協会初代理事長を務める。1991年、毎日新聞連載の『そよ風ときにはつむじ風』で「日本文芸大賞」を受賞したことから多数の連載を抱えることとなり、以後は文筆業や講演が活動中心となる。2007年、初の池部良研究本『映画俳優 池部良』を出版。同年2月、東京池袋の新文芸坐のトークショーにてその本の編集者から「青い山脈の時に31歳でしたが…」との質問に対し実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことを告白した。ただし、過去の池部のエッセイではこのことを暗に仄めかした記述がある。年齢より若い役が多く、実年齢が近い森繁久弥や藤田進の息子役を演じたこともある。文筆業が中心となってからでも「自分は(映画)俳優である」という意識を持っていた。しかし「オファーがあっても(相手から)年齢を聞かれて、答えると『じゃあ、この話は…』と断られてしまう」ことを2008年2月の『徹子の部屋』出演時に語っていた。 2010年10月8日午後1時55分、敗血症のため東京都内の病院で死去。〔「青い山脈」俳優の池部良さん死去、92歳 - nikkansports.com、2010年10月11日〕。亡くなった際も、雑誌「百歳万歳」「銀座百点」ほか4誌にエッセイを連載中だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池部良」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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