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平 頼盛(たいら の よりもり)は、平安時代末期の平氏一門の武将・公卿。平忠盛の五男。母は修理大夫・藤原宗兼の女、宗子(池禅尼)。通称は池殿、池大納言。平清盛の異母弟。清盛の男兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も唯一生き残った人物である。 == 生涯 == === 生い立ち === 長承2年(1133年)に生まれる。母の藤原宗子は待賢門院近臣家の出身だったが、従兄弟には鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成がいたことから美福門院ともつながりがあった〔家成の父方の従姉妹が美福門院であり、母方の従姉妹が宗子になる。(高橋昌明 『清盛以前-伊勢平氏の興隆- 増補・改訂版』文理閣、2004年)〕。 その幅広い人脈により「夫ノ忠盛ヲモモタヘタル者(夫の忠盛をも支えるほどの者)」〔『愚管抄』〕と呼ばれ、忠盛の妻たちの中で最も重んじられていた。 清盛は忠盛の長子だったが生母はすでに死去していたため、宗子の産んだ次男・家盛が母の後押しで嫡子となる可能性もあった。久安3年(1147年)に清盛が祇園闘乱事件を引き起こして処罰されたことにより、家盛の存在感は急速に高まった。同年12月に常陸介となり、翌久安4年(1148年)正月には従四位下・右馬頭となって清盛に迫る勢いを示すが、久安5年(1149年)病死してしまう。 忠盛の落胆は大きかったが、清盛は対抗馬が消えたことで後継者の地位を確実なものとした。頼盛は家盛の同母弟といっても清盛とは15歳の年齢差があり、清盛を押しのけることは無理だった。それでも頼盛は正室のただ一人の子として優遇されていて、家盛の地位を継承して17歳で常陸介に任じられている。この時点では異母兄の経盛・教盛は受領ではなく、頼盛は一門の中で清盛に次ぐ位置にいた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平頼盛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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