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汪兆銘 : ミニ英和和英辞書
汪兆銘[おう ちょうめい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょう]
  1. (num) sign 2. omen 3. indication 4. portent 5. 1,000,000,000,000 6. trillion (American) 7. billion (British) 

汪兆銘 : ウィキペディア日本語版
汪兆銘[おう ちょうめい]

汪 兆銘(おう ちょうめい、1883年5月4日 - 1944年11月10日)は中華民国政治家季新精衛(中華圏では「汪精衛」と呼ぶのが一般的である)〔戦前・戦中までの日本でも、「汪精衛」との呼称を使用する例は決して少なくなかった。東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社(昭和16年)や『写真週報』などの出版物、さらに週間ニュース映画「日本ニュース」などが「汪精衛」としている。〕。知日派として知られた。原籍は浙江省紹興府山陰県(現在の紹興市柯橋区)。
==生涯==

===生誕から日本留学まで===

光緒10年(1884年)、10人兄弟の末子として広東省三水県(現在の仏山市三水区)に生まれる。光緒30年(明治37年、1904年)9月、清朝の官費生として日本の和仏法律学校法政大学(今の法政大学の前身)に留学。留学中に孫文の革命思想に触れ、光緒31年(1905年)、革命党に入党した。
やがて孫文の来日を機に同年8月中国同盟会が結成され、汪兆銘は機関紙『民報』の編集スタッフを務めることになる。この頃から汪は「精衛」という号を用いるようになった。
光緒32年(1906年)6月、法政大学速成科を卒業。官費留学の期限は切れたが、汪はそのまま法政大学の専門部へ進み、革命運動を続けることとした。この頃、イギリス領マレーのペナン島の有力華僑の出であり、のちに汪の妻となる陳璧君も運動に参加している。民国四大美男に数えられるほど、若い頃は長身の美男子であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「汪兆銘」の詳細全文を読む




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