|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 決 : [けつ] 【名詞】 1. decision 2. vote ・ 決闘 : [けっとう] 1. (n,vs) duel 2. shoot-out ・ 裁 : [さい] (n-suf) judge ・ 裁判 : [さいばん] 1. (n,vs) trial 2. judgement 3. judgment ・ 判 : [ばん] (n,n-suf) size (of paper or books)
決闘(けっとう、)は、2人の人間が事前に決められた同一の条件のもと、生命を賭して戦うこと。果たし合い。 ==概要== 通常は、一方(挑戦者)が、自らの名誉を回復するために決闘を申し込む。主に、通常の裁判などでは自らの正しさが証明できないときに使われた。一般的に決闘は同じ社会的階級の者同士で行われた。特に上流階級の者同士で行われる決闘は広く注目を集めた。現代、多くの先進国では決闘は禁止されており、まためったに行なわれることはない。 たとえば日本では、決闘罪ニ関スル件(1889年制定)により、決闘は禁じられている。 決闘はしばしば文学作品上で美化されて表現されるが、実際に決闘を行うのは当然のことながら生命の危険が伴う。決闘に際し助命しないことを事前に宣言することもあった (no quarter)。 一方が決闘を申し込み、他方が受諾すれば決闘が行われる。申し込みの方式は、相手の足元めがけて白手袋を投げるか、顔を白手袋ではたくことによって行い、相手が手袋を拾い上げれば受諾となる。ただしこれ以外に、決闘状を送りつける方法や、代理人を向けて決闘を申し込む場合もある。 戦闘の方式は時代や国により決まっていることもあるが、近世以降は両者が協議して決定する。戦う2名のほか証人(決闘責任者)1名の計3人で決闘は成立するが、2名のみで証人が立てられなかった例もある。通常、戦闘を行う2名は、それぞれ1名の介添人(セコンド)をつける。このため、決闘は通常、5名で行われることになる。ただし、通常はこのほか大勢の見物人が決闘を見守る。 中世までは介添人は武器を持っていた。このため、決闘が白熱すると介添人も含む4名の乱闘となり、多数の死者が出ることもあった。近世以降、介添人は立会人となり、武器の携帯は禁じられるようになった。 記録に残る最初期の決闘は、棍棒と盾で行うものと決まっていたが、時代により、また場所により、武器や武装はさまざまである。中世は剣で行われ、近世以降は拳銃でも行われた。武器が選べる時代は、通常、最初に侮辱を受けた側が武器を選ぶ権利を持つ。武器は同一のものが2つ用意されるのが普通である。 時代によっては、どちらか一方が死ぬまで戦闘が続けられた。敗者がその場で処刑された時代もある。 決闘は同じ身分の者同士しか行えなかった。たとえば、自由民と農奴は決闘を行えなかった。しかし、そのような場合、領主が特別に農奴に自由民の資格を与え、決闘が行われることがしばしばあった。 戦闘は申し込んだ者と申し込まれた者が行うが、病人と女性、年少者は代闘士(チャンピオン)を立てることができた。職業として代闘士があった時代がある。時代が下ると、聖職者、老人なども代闘士を立てることができるようになり、13世紀ごろを境目にどのような人物でも何らかの理由で代闘士を立てることが認められるようになった。 封建時代の日本において、主に武士階級が行った決闘はヨーロッパの作法と幾分異なる部分がある。正式な決闘の場合は、日時と場所を記した「果たし状」を送るが、突発的な理由の場合は、武士は常に刀を携帯している関係上、刀を抜くことが挑戦であり、それに応じて相手が刀を抜けば決闘の受諾となり、そのまま決闘が始まることになる。 江戸時代の決闘は領主の警察権の対象であり、果し合いは領域を統治する大名勢力から見れば自領内で起こった乱闘・殺人事件であり刑事罰の対象とされた。有名な巌流島の決闘の場合では、豊前と長門の間の「ひく嶋」を果し合いの場所に選んでおり、これは大名側(細川・毛利)の統治範囲の曖昧な無人島であったからと推測されている〔「異説「巌流島」」吉村豊雄(文学部教授、熊本大学附属図書館報 2002.10)〕。決闘の結末は理非をもって裁断され喧嘩両成敗とはならないのが通常であったが、しばしば敵討騒動の原因となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「決闘」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Duel 」があります。 スポンサード リンク
|