翻訳と辞書 |
沈嗣良[しん しりょう]
沈 嗣良(しん しりょう〔『最新支那要人伝』136頁は「ちん しりょう」との読みを当てている(更に言えば、同書は沈姓の人間全員に「ちん」の読みを当てている)が、これは明らかに誤り。姓としての「沈」は(同義漢字は「瀋」)、すなわち「しん」の読みが正しい。「沈」を「ちん」と読む場合には、(同義漢字は「沉」)でなければならない。〕 )は中華民国のスポーツ教育者。 == 事跡 == 上海聖ヨハネ大学を卒業後にアメリカに留学する。最初はオベリン大学で学び、後にコロンビア大学へ進学して教育管理を学び、修士号を取得した。1923年(民国12年)に帰国し、聖ヨハネ大学で教務長兼体育部主任を務めている。また、中華全国体育協進会総幹事にもなった。 1925年(民国14年)、フィリピンで開催された極東選手権大会(「」)に中国代表団を率いて参加した。また、同年から1927年まで、極東体育協会(Far Eastern Athletic Association)の名誉幹事(honorary secretary)を務めている。1927年(民国16年)、張伯苓らと協力して、極東選手権大会を上海に招致している。1936年(民国25年)、中国代表団監督としてベルリンオリンピックに参加した。 その後、上海に当時国内最大規模だった江湾体育場の建設を提唱・主導している。日中戦争期間中には、聖ヨハネ大学学長も務めた。戦後はアメリカに移住し、晩年を過ごしている。 1967年、アメリカにて死去。享年72。著書に『中華全国体育協会史略』などがある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「沈嗣良」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|