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沈覲鼎[しん きんてい]
沈 覲鼎(しん きんてい〔『最新支那要人伝』135頁は「ちん きんてい」との読みを当てている(更に言えば、同書は沈姓の人間全員に「ちん」の読みを当てている)が、これは明らかに誤り。姓としての「沈」は(同義漢字は「瀋」)、すなわち「しん」の読みが正しい。「沈」を「ちん」と読む場合には、(同義漢字は「沉」)でなければならない。〕)は中華民国(台湾)の外交官・学者。北京政府・国民政府で外交官としての経歴を重ね、各国大使を歴任した人物である。字は淪新。なお、清末の政治家である沈葆楨は曽祖父にあたる。 == 事跡 ==
=== 北京政府から国民政府へ === 日本に留学し、東京帝国大学農学部を卒業した。続いてアメリカに赴き、ジョージタウン大学で外交学を学んだ。1920年(民国9年)に帰国し、北京政府外交部秘書となる。1922年(民国11年)のワシントン会議では代表団付となり、1925年(民国14年)には特別関税会議籌備処副長、外交部情報処副長を歴任した。1927年(民国16年)、特命全権公使待遇となっている。 北京政府崩壊後は国民政府に転じ、外交部条約委員会委員となる。1928年(民国17年)11月、考試院簡任(上席)秘書となり、その翌年11月には同院参事に昇格した。また、南京の中央大学で助教授も務めている。 1932年(民国21年)1月、沈覲鼎は外交部亜洲司司長兼国際連盟中国代表団専門委員に任ぜられた。翌年4月帰国し、華北で日本軍との交渉に携わっている。1934年(民国23年)10月、初代駐パナマ特命全権公使に任命された。1941年には、コスタリカ・エルサルバドル・ホンジュラスの各国公使も兼任している。1942年4月に任を解かれ、アメリカ軍の大学で講座を開いた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「沈覲鼎」の詳細全文を読む
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