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沙淦[さ かん]
沙 淦(さ かん)は、清末民初の革命家。字は宝琛。別号は憤憤。 == 事跡 == 12歳で通州第一高等小学に入学したが、13歳のときに弁髪を切り、革命の道を志すようになる。中学を卒業後に日本へ留学し、成城学校などで学んだ。日本滞在中に、孫文(孫中山)の中国同盟会創設準備に関与し、創設時の構成員ともなった。 1911年(宣統3年)の帰国後は、ジャーナリストの道を歩みつつ革命の準備を進める。一時は清の官憲に逮捕される危機もあったが、革命派人士である趙声に救出され、後に上海に赴き、革命工作に引き続き従事した。同年10月、武昌起義が勃発、辛亥革命が開始される。沙淦は陳其美らとともに決死隊を組織し、上海製造局を攻撃するなどした。上海が革命派により掌握されると、沙は都督府参謀に任ぜられている。 中華民国成立後、沙淦は江亢虎率いる中国社会党に加入し、総部庶務幹事をつとめる。しかし江は次第に袁世凱に接近する姿勢を見せたため、沙は中国社会党を離脱し、別に社会党(純粋社会党とも呼ばれる)を結成した。沙は陳其美らとともに上海の出版界で活動し、袁を非難する『土皇帝』という書を著している。 1913年(民国2年)に第二革命(二次革命)が勃発すると、沙淦は地元周辺で資金募集の活動に従事している。ところが、故郷の南通に戻ったところで袁世凱に味方する勢力により捕縛、殺害されてしまった。享年29。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「沙淦」の詳細全文を読む
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