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沙鉢羅咥利失可汗(呉音:しゃはちらでちりしちかがん、漢音:さはつらてつりしつかかん、拼音:Shābōluódiélìshīkĕhàn、? - 639年)は、西突厥の可汗。咄陸可汗(テュルク・カガン)の弟。沙鉢羅咥利失可汗(イシュバラ・テリシュ・カガン)〔「咥利失」は古代テュルク語で「集めること」を意味する「ティリシュ tiriš」「テリシュ teriš」の音写かもしれない。≪佐口・山田・護 1972,p222≫〕というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。同娥設(トンガ・シャド Toŋa Šad)〔「トンガ Toŋa」は「豹」「英雄」を意味し、人名や称号、またはその一部として用いられた。≪佐口・山田・護 1972,p222≫〕という官職に就いていた。 == 生涯 == 貞観8年(634年)、咄陸可汗(テュルク・カガン)が卒去すると、弟の同娥設(トンガ・シャド)が立って沙鉢羅咥利失可汗(イシュバラ・テリシュ・カガン)に即位した。 貞観9年(635年)、沙鉢羅咥利失可汗は上表して唐に請婚し、馬500頭を献上した。朝廷はただ厚く加えて撫慰するだけで、その結婚を許さなかった。 沙鉢羅咥利失可汗は部衆に帰服されず、遂に離反されてしまい、統吐屯(トン・トゥドゥン:官名)〔「統」は「暾」とも写されるテュルク語と思われ、クリャシュトルヌィによると、「暾」は「第一の」「最初の」などを意味するテュルク語「トン ton」「トゥン tun」の音を写したものであるという。≪佐口・山田・護 1972,p214≫〕に襲われ、麾下は亡散した。沙鉢羅咥利失可汗は左右の百余騎でこれを拒み、数回戦うと、不利と見た統吐屯は兵を引いた。沙鉢羅咥利失可汗は弟の歩利設(ボリ・シャド Böri Šad:官名)〔「歩利」はテュルク語で「狼」を意味する「ボリ Böri」の音写。≪佐口・山田・護 1972,p224≫〕のもとへ逃れ、焉耆国に立てこもった。阿悉吉(アスケール Askēl)部〔内藤 1988,p173-174〕の闕俟斤(キュル・イルキン Kül-irkin:官名)は統吐屯らと国人を召して、欲谷設(ユクク・シャド:官名)〔クリャシュトルヌィによれば、「大切なもの、珍しいもの」を示すテュルク語「ヨクク yoqq」を音写したものであるという。≪佐口・山田・護 1972,p225≫〕を立てて大可汗とし、沙鉢羅咥利失可汗を小可汗にしようとした。しかし、統吐屯が殺され、欲谷設の兵もその俟斤(イルキン:官名)に破られたので、沙鉢羅咥利失可汗はふたたび旧地を取り戻し、弩失畢部,処密部などが沙鉢羅咥利失可汗に帰順することとなった。 貞観12年(638年)、西部竟は欲谷設を立てて乙毘咄陸可汗(イビル・テュルク・カガン)とした。乙毘咄陸可汗が立つと、沙鉢羅咥利失可汗と大戦し、両軍の多くが死に、各々撤退した。これによって、沙鉢羅咥利失可汗と二分し、伊列河(イリ川)以西は乙毘咄陸可汗に属し、伊列河以東は沙鉢羅咥利失可汗に属した。乙毘咄陸可汗は可汗庭(首都)を鏃曷山の西に建て、北庭とした。厥越失,拔悉弥(バスミル Basmïl),駁馬,結骨(キルギズ),火燖,触木昆(処木昆)の諸国は皆これに臣従した。 貞観13年(639年)、沙鉢羅咥利失可汗の吐屯俟利発(トゥドゥン・イルテベル:官名)は乙毘咄陸可汗と密通して造反した。そのため沙鉢羅咥利失可汗は拔汗那国(フェルガーナ)に逃れたが死去した。弩失畢部落の酋帥は沙鉢羅咥利失可汗の弟の伽那(カーナー Kānā)の子である薄布特勤を迎えてこれを立てて、乙毘沙鉢羅葉護可汗(イビル・イシュバラ・ヤブグ・カガン)とした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「沙鉢羅咥利失可汗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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