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沙門不敬王者論(しゃもんふけいおうじゃろん)は、中国の東晋代の廬山の慧遠が、時の権力者である桓玄に対して述べた論である。 == 経緯 == それより前、東晋第3代の成帝が未だ幼少であった頃の摂政役であった庾冰が、沙門は王者に敬意を表すべきとする意見を述べた。それに対して、何充・褚昱・諸葛惔ら有力者たちからの反対意見が相次ぎ、紛糾した末に結論は持ち越されてしまった。 桓玄が姑孰(安徽省)で実権を掌握した時、庾冰の論を持ち出し、慧遠に対して往復書簡によって持論を展開し、慧遠が反論する状態が続いた。やがて、桓玄が長江中流域に拠って「楚」を自称して東晋朝からの独立を宣し、帝位を簒奪するに及んで、再び慧遠に書簡を送り、自らの権勢を背景として自説を展開した。 その論に対する慧遠の反論が、すなわち「沙門不敬王者論」である。この論によって、結局桓玄は慧遠を屈服させることに失敗し、世の沙門たちは世俗とは一線を画した自らの在り様を貫くことができるようになった。ただし、慧遠のこの論が影響力を持ち得たのは南北朝時代までであり、初唐にはこの論議が再燃し、当時強大化し始めていた帝権(王法)の前に仏法が次第に劣勢となり、北宋初には完全に従属することとなる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「沙門不敬王者論」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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