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澤 春蔵(さわ はるぞう、1901年(明治34年)3月 - 1972年(昭和47年)7月24日)は、日本の実業家。 == 経歴 == 1901年(明治34年)3月、鳥取県岩美郡大岩村大谷(現在の岩美町大谷)に農家の四男として生まれ、独力で日本交通株式会社をつくりあげた。「日交」と略称されているこの企業はグループ企業を含め、大阪府、京都府、兵庫県、奈良県、鳥取県、島根県と、二府四県に渡って事業を展開している。その事業の主体となるものは、旅客自動車運輸事業といわれる。 1914年(大正3年)3月、大岩小学校(現・岩美西小学校)を卒業した春蔵は、就学前に足を痛めていたため、自動車で自分の未来を開拓しようと考えた。その頃、日本国内にも自動車の数は少なく、鳥取県内では更に珍しいものだった。春蔵の得た運転免許は鳥取県内第3号であった。 1919年(大正8年)6月、18歳の春蔵は1台のトラックを持って、鳥取市賀露町で魚の運送の個人営業を始めた。春蔵の事業は先進的だったが、閉鎖的な風土や不便な道路事情などにより、運送業としての見通しが立たなかった。 そのような時、1923年(大正12年)9月、関東大震災が起こり、東京が壊滅状態になった。この復興事業の中で仕事をしようと春蔵は考えたが、「東京は鳥取から遠すぎる」と大阪で下車し、そこでタクシーの運転手として働くことにした。タクシー運転手としての収入を蓄積し、生活を質素にして、事業の拡大に力を入れた。 その努力が実り、1926年(大正15年)3月、25歳の時に大阪に「澤タクシー会社」を創立した。その後1934年(昭和9年)、室戸台風により新車85台が使用不可能になるなど、大打撃を浴びて破産状態になるが、3年半で事業を再建、「大阪に沢タクあり」と注目されるようになる。 日中戦争が深刻になるにつれ厳しくなる政府からの経済統制を乗り越え、1941年(昭和16年)2月、澤春蔵は「澤タクシー株式会社」を中核として「日本交通株式会社」を創立した。終戦直後の日交本社は空爆による火災焼失に加え、同年9月の枕崎台風で冠水、使用できる車は数台という状況であったが、敗戦の3ヵ月後に本社を大阪府西区新町4丁目の小学校跡地に移し、残存自動車から使用可能な部品を集めて車を再生した。これを稼動させて大阪の足としたのだが、調達の困難さから自社整備工場で車を造ろうと決意。それが後に日交型自動車を誕生させるもととなった。鳥取県では1945年(昭和20年)10月、澤春蔵に免許が与えられ、「沢タクシー」の名で開業されることになった。それが発展して、1966年(昭和41年)8月、日本交通株式会社(鳥取)と名称をかえた。澤は大阪と鳥取を結ぶ長距離バスを計画し、それを15年かかって実現した。1972年(昭和47年)7月24日、澤春蔵は営業所を見回ったあと、自分の運転する自動車から降りて社長室の椅子に座ったところで急死した。71歳だった。 坊主頭で黒い詰襟、飾らない人柄であり、タクシー同業者の間で親しみと敬意を込めて「和尚さん」と呼ばれていた。 春蔵は、苦難の過去を振り返り、「1.体力、2.智力、3.忍耐力、4.情熱的努力」の4項目の信念を挙げている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「澤春蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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