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沢田 東江(さわだ とうこう、享保17年(1732年) - 寛政8年6月15日(1796年7月19日))は、江戸時代の書道家・漢学者・儒学者。洒落本の戯作者でもある。 本来は多田姓だったが沢田姓に改める〔東江自著『書則』に書かれた井上頼圀による手跡(無窮会図書館蔵書)〕。氏は源、諱を鱗、字は文龍・景瑞、通称は文治または文治郎、号は東江のほか来禽堂・萱舎・青蘿館・東郊・玉島山人。江戸の人。 == 略歴 == 士族の子〔 中野(1999)は『先哲叢談後編』の東江が商家出身とする記述を根拠薄弱とみなし、様々な資料から士族出身としている。さらに東江が「書則碑」を建立した多田薬師が多田満仲の念持仏であり、玉島山東江寺(元は向島番場にあったが昭和初年に葛飾区東金町に移転)にある符合から多田源氏の流れを汲む家柄であると推定している。なお、山東京伝の滑稽本『指面草』(天明6年)に鍛冶屋の伜として登場している。〕として江戸両国柳橋に生まれる。 早くから書学を好み、20代前半には明の王履吉の流れをくむ唐様の書家高頤斎に入門。宝暦4年(1754年)には兄弟子の高橋道斎に勧められて上毛多胡碑を観に赴き拓本を打ち、のちに『多胡郡碑面考証』として上梓した。 また学芸に励み、井上蘭台に入門して古註学を学ぶ。このときの同門に井上金峨がいる。この頃から山県大弐や鈴木煥卿(澶州)・高葛陂らとも交友した。 一方で遊里に溺れ放蕩を尽くし、ついに吉原中に「柳橋の美少年」と騒がれた〔 東条琴台『先哲叢談後編』〕という。井上金峨の『唐詩笑』に触発され、26歳の正月に洒落本『異素六帖』を刊行する。これは漢籍『魏楚六帖』のもじりで『唐詩選』の有名句と百人一首の下の句を組み合わせて吉原の情景を織り込むという内容だった。 28歳(宝暦9年・1759年)の春、江戸幕府の要請で蔵書印の篆文の揮毫を行っている。この年の秋、蘭台の口利きで幕府学問所頭の林家に入門し林鳳谷〔 林鳳岡の門人とするのは明治期の誤植による誤り。〕に師事。主に朱子学を学ぶ。明和元年(1764年)春、再び幕府より下命があり、朝鮮通信使の御書法印を篆して白金を下賜される。 学問を通じて関松窓・平沢旭山・井上四明・市河寛斎・後藤芝山・入江北海・山本北山・渋井太室などと交わった。また文人画家の中山高陽と詩友となり、井上金峨とともに賛文を記している。この書画は三絶と評され江戸で人気となった。詩家の鵜殿士寧や安達文仲・横谷藍水とも交遊した。詩僧の六如慈周とは特に親しく、生涯に亘って詩交を続けた。天明2年(1782年)、公遵法親王が帰京のおりに六如とともに随行を許され、大坂の木村蒹葭堂を訪問している。六如と比肩される詩僧大典顕常が江戸に滞在した折り、自宅に招いて教えを請うている。このほかにも蘭学者(吉雄耕牛・宇田川玄随・源通魏)や俳人(谷素外・活々坊旧室)との交友が知られる。 明和4年(1767年)、山県大弐と交友があったことから明和事件に連座。取り調べを受けるも罪過は認められず、無構の申し渡しとなるがその衝撃は大きく経学による出立は諦めざるを得なくなる。以降、呼称(字・号・姓・名)を改めることを繰り返し、書をもって生業とする決意をする。 以後、書において東江流と呼ばれる一派を成し、江戸に書塾を開き多くの弟子を育てた。門弟に角田無幻・鈴木牧之・蒔田必器・韓天寿・橋本圭橘(角町菱屋)・墨河(五明楼扇屋)・三代目花扇(遊女)などがいる。 寛政8年6月(1796年)に死没。享年66。浅草東本願寺に葬られるが、のちに厳念寺(台東区寿1)に移葬される。子の東理、孫の東洋も書家となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「沢田東江」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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