|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 河 : [かわ] 【名詞】 1. river 2. stream ・ 上 : [じょう] (n,pref,suf) 1. first volume 2. superior quality 3. governmental 4. imperial 5. top 6. best 7. high class 8. going up 9. presenting 10. showing 1 1. aboard a ship or vehicle 12. from the standpoint of 13. as a matter of (fact) 13. superior
河上 徹太郎(かわかみ てつたろう、1902年(明治35年)1月8日 - 1980年(昭和55年)9月22日)は日本の文芸評論家、音楽評論家である。日本芸術院会員、文化功労者。 小林秀雄、中原中也、大岡昇平、青山二郎、諸井三郎、吉田健一、白洲次郎たちとの親交も有名。なお夫人綾子は男爵・大鳥圭介の孫にあたる。 ==経歴== 日本郵船の技師を父として、赴任先の長崎市に生まれる。本籍地は山口県岩国市で、河上肇は親類にあたる。河上家は江戸時代は、岩国藩士であった。 1914年(大正3年)、旧制兵庫県立第一神戸中学校を経て1916年(大正5年)、旧制東京府立第一中学校に編入学、同級に富永太郎、1年下に小林秀雄がいた。1919年(大正8年)、旧制第一高等学校文科甲類(文系の英語クラス)に入学するも1920年(大正9年)に休学しピアノを習う。1923年(大正12年)、東京帝国大学経済学部に入学。 1924年(大正13年)、『月刊楽譜』誌に音楽評論「音楽に於ける作品美と演奏美」を発表。 1926年(大正15年)、東京帝国大学経済学部卒業後、3ヶ月のみ東京帝国大学文学部美学科に在籍。 ヴァレリーやジイドを翻訳紹介しフランス象徴主義の影響下に評論活動を展開、近代批評の先駆者となる。シェストフの紹介者としても知られた。 戦時中は国策団体である日本文学報国会に関与し、反西洋的なシンポジウム「近代の超克」にまとめ役の立場で参加した。このため、戦後直後(1946年(昭和21年))に、新日本文学会の小田切秀雄らによって、小林や亀井勝一郎と共に「戦犯文学者」と呼ばれ糾弾されている。 1954年(昭和29年)に『私の詩と真実』で、読売文学賞評論部門を、1960年(昭和35年)に『日本のアウトサイダー』〔「日本のアウトサイダー」と名付けたのは、当時ベストセラーとなったコリン・ウィルソンの処女作『アウトサイダー』をもじったもので、明治・大正期の詩人思想家を論じつつ日本近代にはそもそも「正統」がないと結んでいる。〕で、新潮社文学賞を受ける。1968年(昭和43年)、『吉田松陰』により野間文芸賞を受ける。1971年(昭和46年)、『有愁日記』で日本文学大賞を受ける。 1961年(昭和36年)、日本芸術院賞を受ける。1963年(昭和38年)に日本芸術院会員〔大岡昇平『花影』のモデルの坂本睦子とは、大岡の前に愛人関係にあった。戦後の大岡は左翼的傾向を強めたため1973年(昭和48年)、恐らく小林と徹太郎が、日本芸術院会員に推薦した時、これを拒否した(大岡自身の証言は「捕虜になった過去があるから」というものであり、その真意が日本芸術院の式典に臨席する昭和天皇への皮肉なのか死んでいった兵士たちへの申し訳なさなのかは明確ではない)。〕、1972年(昭和47年)秋に文化功労者。 1980年(昭和55年)、ガンにより東京の病院で没した。葬儀委員長は小林が務めた。郷里岩国市でも葬儀が行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河上徹太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|