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__NOTOC__ ---- 河合 宗元(かわい むねもと)は江戸時代後期から幕末の武士、姫路藩士、尊王攘夷派志士である。初名は宗邦(むねくに)。惣兵衛、また勸次郎と称し、姫路藩尊攘派の首魁と目された。号は松塢。贈従四位。家紋は違い鷹の羽。替紋は銀杏打違。俸禄は250石。 == 経歴 == 文化13年(1816年)2月5日、播磨国飾東郡姫路城中曲輪内(現・兵庫県姫路市本町)〔姫路公園〕に誕生し、勸次郎と名付けられる。河合惣兵衛家は雅楽頭酒井家の家老職を務めた河合寸翁家から戦国時代に分家した家系で、本家と同じく代々酒井家に仕えていた。若年より藩校好古堂の学問所教員を勤め、嘉永5年(1852年)に父の病歿を受けて当主となった後は、安政2年(1855年)に惣兵衛と改称し、使番や宗門奉行、作事奉行、物頭、持筒頭を歴任する。同5年(1858年)には同志の一人、境野意英の次男宗貞を婿養子として迎え、次女さきに配した。 文久2年(1862年)に酒井忠績が京都所司代不在中の同地取締りを命じられると、宗元も5月28日に出京を命じられ、入出京を繰り返しながら、同志と共に諸藩の尊攘派志士と交流を深めて行く。特に三條實美の邸には在京中、一日として伺候しない日は無く、實美も宗元が来ないことが有れば書を遣わして招いたという。 文久3年(1863年)4月10日に禁裏御所御守衛人数組頭に任命された後は、6月6日に姉小路公知の暗殺犯探索を命じられ、7月5日に組頭を罷免された。 八月十八日の政変時には實美に付き従って大佛妙法院に至り、京都に留まるように説得したという。自身もその後、京都を離れて大坂、次いで江戸に向かい、幕府に京都の動静を報告したとされる。江戸からの帰国途中には藩主の行列と行きあったため、暫く同道して11月13日に姫路へ帰着した。これ以降、彼は京都に向かうことは無かったとされている。 元治元年(1864年)2月16日、京都に滞在していた婿養子宗貞と同志の江坂行正が脱藩し、同年4月1日に捕縛、翌日の明け方には宗貞の実父意英が自殺しているのが発見された。その影響からか宗元も同4日に眼病を理由として全ての役を退き、同日に謹慎を命じられる。これに先立って、姫路や京都では姫路藩尊攘派の関与した暗殺事件が発生し、前後して関係者の面々が処罰されていたが、6月28日には彼も親類預けとなり、9月6日に入獄。そして同年の12月26日に自殺刑を命じられ、宗元は姫路城中備前門内の牢舎に生涯を終えた。享年49。辞世として「ひをむしの 身をいかてかは 惜しむへき たゝ惜しまるゝ 御代の行末」の歌が伝わっている。宗貞も同日、斬首刑となり、河合家は家断絶を命じられた。同日には宗元父子のほか数十人の尊攘派志士とその関係者が処罰され、2人に斬首、6名に自殺刑、6名に終身禁獄の重罪が命じられたことから、この事件は同年の干支を採って、姫路藩甲子の獄と通称されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河合宗元」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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