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河村 良彦(かわむら よしひこ、1924年9月21日 - 2010年1月12日)はイトマン事件発覚当時の、イトマン社長。 == 経歴 == 1924年、山口県に生まれる。地元の山口高等商業学校を卒業後、1941年に住友銀行に入行。 『中興の祖』と称される磯田一郎に抜擢され、常務にまで上り詰める。 1975年に、『住友銀行の天皇』と称された堀田庄三の直々の命により、当時メインバンクであり、大阪証券取引所にも上場していた老舗企業イトマンに次期社長含みで入社。当時同社はオイルショックによって倒産寸前であったが、河村は「意識革命」を徹底し、結果として2年後には48億4900万円もあった累積赤字を一掃、翌年には早くも復配にこぎつけることに成功する。 しかしこの成功が河村の独裁化を招いた。バブル景気に入るあたりから、石油の信用取引である石油業転に手を出したり、住銀の要請で平和相互銀行の株を引き取ったりしたことから、経営は徐々に悪化。その結果、拡大路線の切り札として伊藤寿永光をイトマンに入社させる。 伊藤は許永中とともに、イトマンに総額528億円以上の絵画を仕入れさせたり(この絵画の実際の価値は265億円ほどであったとされる)、さまざまなプロジェクトへの資金を出させるなどして、イトマンから資金を引き出して着服、河村はこれを看過してしまう(''詳しくは『イトマン事件』参照'')。 この事件により河村は、1991年に伊藤・許と共に特別背任容疑などで起訴され、最高裁まで行き、2005年に懲役7年の刑が確定した。 公判中、1999年の大阪府知事選挙に、無所属で立候補するが、18,385票で落選(供託金没収)で、立候補者9人のうち8位だった。(なお当選者は横山ノック) 奇しくも、忌日は磯田一郎の誕生日と同日であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河村良彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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