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河津祐之 : ミニ英和和英辞書
河津祐之[かわづ すけゆき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [これ]
 (int,n) (uk) this

河津祐之 : ウィキペディア日本語版
河津祐之[かわづ すけゆき]

河津 祐之(かわづ すけゆき、嘉永2年4月8日1849年4月30日) - 明治27年(1894年7月12日)は、明治時代前期の官僚元老院書記官大阪控訴院検事長名古屋控訴裁判所検事長、司法大書記官司法省刑事局長、逓信次官等を歴任。東京法学校(現法政大学)校長。通称は四郎。
== 経歴 ==
嘉永2年(1849年)4月8日に三河国西端藩藩士である黒澤家に生まれる。幼名は孫次郎(孫四郎)。長じて幕臣である河津祐邦娘婿となり、河津家の家督を継いで河津祐之と改名。
文久2年(1862年)から江戸幕府洋書調所(翌年開成所へ改称、東京大学の源流)で教育を受け、また箕作麟祥の門下となって学問を修め、慶応2年(1866年)、幕府の外国方翻訳掛となる。その後、『和英対訳辞書』などを出版して、語学の天才と言われた〔河津祐之 〕。
明治時代になってからは、明治3年(1870年)3月から大学南校(現東京大学)に出仕し、同7年(1874年)9月まで文部関係の官吏として文部中教授、文部省学制取調掛などを歴任。明治4年(1871年)12月から箕作麟祥の下で、学制の起草にあたり〔文部科学省「学制の制定」『学制百年史』 〕、明治5年(1872年)5月から教育制度調査のためフランスに留学。明治6年(1873年)以降に文部省から刊行された『仏国学制』の翻訳者を務めた〔「小学総論」「中学総論」の校閲、「大学総論」の翻訳。〕。
明治8年(1875年)6月から同12年(1879年)まで元老院書記官となり、ボアソナードを援け法典調査・起草などに参与。明治13年(1880年)11月に検事となり、大阪控訴院名古屋控訴裁判所(現在の高等裁判所)の検事長を勤め、同15年(1882年)8月に退官。また、同時期には嚶鳴社に入り、民権思想を広める活動も行なった。
退官後は自由党に参加。『日本立憲政党新聞』(現毎日新聞)の主幹となり、明治18年(1885年)6月まで在社。
その後、再び官界に戻り、明治19年(1886年)2月、司法大書記官となり、3月に司法省刑事局長となった。刑事局長時代には、東京法学校(現法政大学)の校長に就任して、東京仏学校との合併による和仏法律学校設立に従事したほか、明治24年(1891年)の大津事件(日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ暗殺未遂事件)に際しては、司法省刑事局長として対応にあたった。同年7月23日には逓信次官となったが、明治26年(1893年)3月、病気療養のため退官した。
療養に努めるが、翌年(1894年)7月12日に死去。享年46。墓は東京都台東区谷中玉林寺にある。法名は総達院殿英倫祐之大居士。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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