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河津 祐邦(かわづ すけくに、文政4年(1821年) - 明治6年(1873年))は、江戸幕府の旗本。幕末に勘定奉行、関東郡代、長崎奉行、外国事務総裁などの重職を歴任した。家禄は100俵高。官職名は伊豆守。墓は東京谷中五林寺にある〔『長崎県大百科事典』。〕。曾我兄弟の仇討ちで有名な工藤祐経の子孫であり、大津事件の際に刑事局長を務めた官僚の河津祐之は祐邦の女婿、孫の暹は経済学者(東京帝国大学経済学部教授)である。 == 生涯 == === 幕臣としての経歴 === 嘉永3年(1850年)9月家督を継いで小普請入りし、同年12月に表火之番に就任。翌4年(1851年)8月に徒目付に就任。安政元年(1854年)7月28日、箱館奉行支配調役(150俵高)となって蝦夷地の開拓や五稜郭の築造に携わり、同年12月27日に箱館奉行支配組頭となり同時に御目見の身分となる。安政5年(1858年)2月27日に布衣を許され、家禄は100俵高となる。 文久3年(1863年)4月11日に新徴組支配(1000石高)、同年9月28日には外国奉行に就任。同年、幕府は八月十八日の政変の後、攘夷の体面を保つ必要から横浜を鎖港しようと図った。その交渉のため、河津は池田筑後守長発と共にフランス公使と折衝。同年11月に欧米への差遣を命ぜられ、池田長発を正使とする遣欧使節団(横浜鎖港談判使節団)の副使として12月に出国。上海・スエズ・マルセイユを経てパリに入り、交渉に当ったが、開国の必要性を感じて横浜の鎖港を断念。パリ約定を調印して帰国。池田長発と共に幕府に建議したが、逆に咎められ元治元年(1864年)7月23日に免職、逼塞を命ぜられる。 同年12月に逼塞を解かれ、慶応2年(1866年)3月16日に歩兵頭並(1000石高)となり、関東郡代を同年8月26日から同3年(1867年)1月26日まで5ヶ月間務める。26日からは、関東の取締強化のために設置された関東在方掛(勘定奉行並・在方掛)に同じく前関東郡代の木村飛騨守勝教とともに任命される〔関東在方掛は役高2,000石で、河津は安房国・上総国・下総国・常陸国を支配し、下総国相馬郡布佐村(現・千葉県我孫子市)を陣屋とした。なお関東郡代の廃止は同年2月5日であるが、河津の後任は無かった模様である。〕。同年8月15日に第124代目の長崎奉行に就任、同年10月11日(11月6日)に長崎に着任する。 慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が新政府軍に敗れたという報を聞いた後、同月15日早朝にイギリス船に乗って長崎を脱出し江戸に戻る。同月23日(または24日)、奉行職を罷免。同日、外国事務副総裁に就任し、同年2月6日に外国事務総裁となる〔前任者である小笠原長行が明治元年正月に外国事務総裁を免ぜられ、山口直毅が同月23日に同職に就任。その際に外国事務副総裁が置かれ、河津がこれに任命される。後に、河津が若年寄に転任して、外国事務総裁は廃止となった。〕。同月29日に若年寄に転任し、そのまま江戸幕府終焉の時を迎える。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河津祐邦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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