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河田 次郎(かわだ の じろう、不詳 - 文治5年9月6日(1189年10月17日))は平安時代末期、鎌倉時代初期の武士。藤原泰衡の郎党。安田次郎とも。諱は守継。 文治5年(1189年)、源頼朝の奥州征伐によって主人・藤原泰衡が敗走すると、比内郡贄柵(現秋田県大館市)の領主であった河田次郎は裏切って9月3日未明に泰衡を討った。6日、河田が泰衡の首を持ち、陣岡に進んでいた頼朝の下へ参じる。頼朝は実検を行うと、泰衡の首はかつて源頼義が安倍貞任の首を釘で打ち付けさせた例に倣わせた。 その後、河田は主人を討った不義を頼朝に咎められ斬罪に処せられた。頼朝の父・源義朝も同じような状況で家人・長田忠致に裏切られて殺されており、頼朝の立場としては河田次郎が許せなかったのだと考えられる。 == 関連項目 == *奥州合戦 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河田次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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