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河越 宗重(かわごえ むねしげ、生没年〔『常楽記』元亨三年六月十三日条。 河越出羽入道他界五十三〕:文永8年(1271年) - 元亨3年(1323年))は、鎌倉時代後期の武将。鎌倉幕府御家人。父は河越経重。鎌倉幕府御家人。河越氏当主。河越出羽入道とも〔〔「千葉上総系図」(『続群書類従』第六輯下に所収)によれば宗重の註記に「出羽守」とある(紺戸論文(『中央史学』二、1979年、p.18~19))。〕。 == 人物 == 北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第8代執権・北条時宗より偏諱を受けて宗重と名乗る〔得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており、地域棟梁格の有力御家人であった秩父氏(菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年)の嫡流である河越氏もその統制下にあった。その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されており(角田朋彦 「偏諱の話」(『段かづら』三・四、2004年) および 山野論文(山本、2012年、p.163)、→詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)、泰重が北条泰時、経重が北条経時、宗重が北条時宗、貞重が北条貞時、高重が北条高時から一字を拝領したと考えられる(以上、紺戸論文(『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.18~19)より)。〕。 元寇にあたり、弘安8年(1285年)ごろから豊後国香々地地頭として西国へ下る。元亨3年(1323年)、53歳で死去〔。家督を継いだ貞重は系図上宗重の子とされるが、両者は1歳違いのため、親子ではなく兄弟と考えられる。 なお、宗重の子である治重(はるしげ)・仲重(なかしげ)らが鎌倉幕府滅亡後の建武年間に豊後国香賀地荘で現地の支配を行っていた記録が見られるが、これ以降の河越氏の動向は不明。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河越宗重」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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