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為公会(いこうかい)は、自由民主党の派閥(宏池会系)。会長は麻生太郎であり、通称麻生派と呼ばれる。 前身は河野洋平を会長とした大勇会(河野グループまたは河野派)で、宏池会の流れを汲む。 == 沿革 == === 大勇会 === 1995年(平成7年)の自民党総裁選挙で、現職総裁は宮沢派の河野洋平だったが、同じ宮沢派の実力者である加藤紘一は河野再選を支援せず他派である小渕派の橋本龍太郎を支持。加藤は橋本の党総裁当選に伴い自民党幹事長に就任。この結果、河野と加藤の対立は決定的となる。そして、1998年(平成10年)12月、宮澤派領袖が加藤となって加藤派となることに河野が反発、派内の加藤会長就任に批判的な議員麻生太郎ら15人と脱退し、翌1999年(平成11年)1月、河野を高く評価していた鯨岡兵輔を最高顧問に迎えて、正式に派閥として大勇会を旗揚げした。 大勇会は1992年(平成4年)、河野が宮澤内閣の官房長官を務めていた頃に派閥横断的な政策集団として結成されているが、この時から後に河野と宏池会を脱退する粕谷茂ら反加藤色の強いメンバーが参加していた。このように理念・政策よりも反加藤という人間関係で集まって成立した派閥のため、領袖は親中派でハト派の河野であるものの、派のメンバーは麻生を筆頭に反中親台湾派のタカ派議員が殆どで、明確な政策的接合性はない。2000年の加藤の乱では反加藤という派の性格もあり、森内閣不信任決議反対に回った。 政策の問題から、衛藤征士郎などは台湾の李登輝来日を河野が執拗に妨害しているとして離脱した(後にタカ派色が強い清和会に入会)。また、河野が衆議院議長に就任した2003年(平成15年)11月以後は河野が党派を離脱する事になったため、座長の相澤英之元衆議院議員が派閥を纏める立場に就いた。 2006年(平成18年)5月、グループ所属議員の河野太郎(洋平の子)が、同年9月に行われる自民党総裁選出馬に意欲を見せる麻生太郎に先駆けて、立候補を表明した。しかし、大勇会では既に麻生の出馬を前提に動いているため、鈴木恒夫大勇会事務総長が河野太郎に対し、「(河野が)総裁選出馬を辞退する場合は、麻生氏の推薦人になるように」と、異例の忠告を行った。そして実際に出馬断念し麻生陣営に参加した。 なお、河野洋平の父親である河野一郎が率いた「河野派」(春秋会、現在の山崎派・伊吹派のルーツ)との関連性はない〔“3億5000万円”で「新自由クラブ」 新党結成秘話編 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「為公会」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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