|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 河 : [かわ] 【名詞】 1. river 2. stream ・ 野 : [の] 【名詞】 1. field ・ 主 : [ぬし, おも] 【名詞】 1. owner 2. master 3. lover 4. god ・ 一 : [いち] 1. (num) one
河野 主一郎(こうの しゅいちろう、1847年1月11日(弘化3年11月25日) - 1922年(大正11年)2月12日〔『日本人名大辞典』739頁。〕〔『官報』第2869号(大正11年2月27日)では、大正11年2月13日死去。〕)は、幕末の薩摩藩士、明治から大正期の陸軍軍人、政治家、神職。官選青森県知事、霧島神宮宮司。 ==経歴== 薩摩藩士の家に生まれ、戊辰戦争に従軍。明治維新後、近衛陸軍大尉となる。1874年、下野した西郷隆盛に従い帰郷。私学校の創設に参画した。1877年、西南戦争に五番大隊一番小隊長として従軍。同年8月、可愛岳突囲を提案し、辺見十郎太とともに先鋒を務めた。城山での籠城中、西郷の助命嘆願のため政府軍に赴き捕虜となる〔『桐野利秋のすべて』187頁。〕。 西南戦争後に懲役10年の刑で服役するが、1881年に特赦で出獄〔〔小川原「鹿児島三州社の一考察」120頁。〕。帰郷して互助・授産・教育を目的として三州社を設立〔小川原「鹿児島三州社の一考察」120-121頁。〕。その後、自由民権運動に加わるが、政府からの圧迫や全国各地の政党の衰退を受け、1884年末に政府の誘いを受けて官途についた〔小川原「鹿児島三州社の一考察」123-126頁。〕。 1895年、日清戦争末に比志島混成支隊に加わり、運送船「小倉丸」に乗船し澎湖諸島に渡る。田中綱常澎湖列島行政庁長官を補佐した〔『新編日本の歴代知事』97頁。〕。その後、台北県宜蘭支庁長に就任し、1896年9月7日まで在任〔『官報』第3960号、明治29年9月8日。〕。 1897年11月13日、青森県知事に就任〔。1899年1月21日、知事を非職となる〔『官報』第4666号、明治32年1月23日。〕。 1918年12月18日、霧島神宮宮司に就任し〔『官報』第1914号、大正7年12月19日。〕、在任中に死去した〔『官報』第2869号、大正11年2月27日。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河野主一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|