|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 河 : [かわ] 【名詞】 1. river 2. stream ・ 野 : [の] 【名詞】 1. field ・ 三 : [み] 1. (num) three
河野 忠三(こうの ちゅうぞう、1851年7月13日(嘉永4年6月15日)- 1922年(大正11年)1月28日〔『阿東町誌』453頁。〕〔『徳佐村史 第7巻』151頁では「1月27日」。〕)は、明治期の裁判官、内務・警察官僚。官選県知事。号・独坐居士〔『新編日本の歴代知事』714頁。〕。 ==経歴== 長門国阿武郡萩土原(現山口県萩市)で、長州藩士・白根多助の三男として生まれ、万延元年8月23日(1860年10月7日)、徳佐村字台の河野尚人の養子となる〔。 1874年11月、山口県十五等出仕・聴訴課勤務となる〔〔『人事興信録』初版、388頁。〕。1876年、司法省に転じ、司法大丞などを務め、1881年、判事となり東京上等裁判所判事に就任。その後、内務省に転じ、神奈川県五等警部を経て、1883年、群馬県警部長に就任。以後、群馬県書記官、三等警視、警視庁警察本署事務員、岡山県書記官、愛知県書記官などを歴任〔〔〔〔「河野忠三特旨叙位ノ件」〕。 1894年9月、岡山県知事に就任。治水事業、産業振興に尽力〔『新編日本の歴代知事』804頁。〕。1897年4月、知事を非職となる〔『官報』第4126号、明治30年4月8日。〕。1898年4月、島根県知事に就任。県立中学校、実業学校の設立など中等教育施設の整備に尽力〔『新編日本の歴代知事』782頁。〕。1900年9月、茨城県知事に転任。県会と対立を続ける中、教育、産業振興に尽力〔『新編日本の歴代知事』242頁。〕。1903年6月、奈良県知事に転任〔。奈良帝室博物館評議員も務めた〔。1906年7月、知事を休職となる〔『官報』第6925号、明治39年7月30日。〕。1908年7月27日、休職満期となり退官した〔『官報』第7528号、明治41年7月30日。〕。 その後、故郷の徳佐で余生を送り、青年団長などを務めた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河野忠三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|