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河鍋 暁翠(かわなべ きょうすい、慶応3年12月10日〈1868年1月4日〉〔河鍋暁斎 ジョサイア・コンドル著 山口静一訳 岩波文庫 278頁〕 - 昭和10年〈1935年〉5月7日)とは、明治時代から昭和時代初期の日本画家、浮世絵師。 == 来歴 == 浮世絵師で狩野派の絵師であった河鍋暁斎の門人で、暁斎3番目の妻ちかとの間に生まれた長女。名はとよ、初め暁辰と号す。江戸生まれ。数え5歳の頃、父に「柿に鳩の図」(河鍋暁斎記念美術館蔵)の手本を与えられ、日本画の手ほどきを受け始めた。暁翠はこの手本を生涯大事にしていたという。17歳の時には第2回内国絵画共進会に出品するまでの実力を備えていた。『河鍋暁斎絵日記』には彩色を手伝ったり、時に代稽古に出かける姿がしばしば描かれている。 その後も明治20年代にはいくつかの展覧会に出品し、その彩色を評価され、内国絵画共進会や内国勧業博覧会で入選する。明治21年(1888年)土佐派・住吉派の絵師山名貫義に弟子入り、父の狩野派とは異なる流派を学び、明治22年(1889年)22歳の時に父暁斎と死別している。明治24年(1891年)、美術展覧会に川鍋とよとして「佳人詠落花図」を出品し、褒状二等を受賞している。明治29年(1896年)日本美術協会会員にもなっている(亡くなるまで在籍)。明治35年(1902年)、東京女子美術学校(現・女子美術大学)開校直後、初の女性教授となる。この間、明治40年代までは錦絵や挿絵本も出版するなど、画家として幅広い活動を繰り広げていた。しかし娘の誕生後は生来の控えめな性格も手伝ってか、展覧会活動等は少なくなり、良家の子女や画道に関心を持つ趣味人に教える個人教授が、活動の主体となっていった。昭和10年(1935年)出稽古先で脳溢血となり、死去。享年68。戒名は大法院妙聞日豊大姉。谷中瑞輪寺塔中正行院に葬られる。 暁翠は父の画風を受け継ぎながら美人画や能画を能くしたが、その作品は少ない。浮世絵研究者飯島虚心は「翁(暁斎)の筆と比べて殆ど異なる所なきが如し」「最も彩色に長ぜり」と評している(飯島虚心『河鍋暁斎翁伝』)。作品としては「鐘馗」、「七福神辰年図」などが挙げられる。「七福神辰年図」は3枚続の絵で、大黒天が恵比寿、寿老人、おかめの前で辰の絵を描いている場面を描いている。また肉筆で「百福図」と題して多くのお多福の絵を描いている。「地獄太夫図」は和泉国堺の高須町の遊廓にいた遊女の地獄太夫を描いており、この地を訪れた一休和尚が「聞きしより見ておそろしき地獄哉」と詠みかけると、「活来る人もおちざらめやも」と付け句した才女であったといわれる。 門人に佐藤暁閑、綾部暁月、小熊忠一がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河鍋暁翠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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