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河鰭家(かわばたけ)は、藤原北家閑院流滋野井支流の公家である。平安時代末期の権大納言滋野井実国の次男・参議藤原公清を祖とする。家格は羽林家。家学は神楽。江戸時代の石高は始め100石、後に152石〔公卿類別譜(公家の歴史)河鰭 〕。戦国時代季富の頃に一時中絶する。江戸時代になって持明院基久の子・基秀が入り再興される。 幕末、明治維新時の実文は、内大臣三条実万の五男。三条実美は実兄に当たる。戊辰戦争では錦旗奉行を務め、江戸開城に当たっては東征大総督である有栖川宮熾仁親王とともに江戸城に入城した。維新後は、東京府権少参事、内務省権少書記官を経て、英国に留学。同じく英国留学組で旧日向高鍋藩主家の秋月種樹ととも英国議会で貴族が上院議員になるなど国家・社会上の役割に注目する。帰国後、1873年(明治6年)山内豊誠・正親町公董・平松時厚らと、議会開設に備え通款社を設立した〔小田部雄次『華族』中央公論新社、2006年、74頁。〕。1874年(明治7年)6月、通款社と同様の目的で設立された団体である麝香間祗候会議が合同する形で華族会館が発足すると同会館副幹事に就任した。1884年(明治17年)7月7日に華族令が制定されると、子爵を授けられる〔小田部雄次『華族』中央公論新社、2006年、331頁。〕。その後、第1回貴族院子爵議員選挙で貴族院議員に選出された。1890年(明治23年)10月20日、錦鶏間祗候となる〔『官報』第2195号、明治23年10月22日。〕。 公篤は侍従、掌典を務めた。実英は、三条実美の四男。大正天皇の侍従を務めた後、戦後の1949年(昭和24年)昭和女子大学教授を経て、1969年(昭和44年)同大学学長。文学博士。日本服飾史を専門とした。公昭は、天文学者。名古屋大学理学部教授、同大名誉教授。理学博士。日本天文学会副理事長などを歴任し、野辺山宇宙電波望遠鏡計画に尽力した他、太陽フレア電離層の変動から太陽軟X線の存在を予測した〔 〕。 ==系図== 河鰭家 ;実線は実子、点線(縦)は養子。 } 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河鰭家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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